設することになり、権兵衛を挙げて普請奉行にしたのであった。
 野中兼山の開修した室戸港と云うのは、土佐日記に、「十二日、雨ふらず(略)奈良志津《ならしず》より室戸につきぬ」と在る処《ところ》で、紀貫之《きのつらゆき》が十日あまりも舟がかりした港であるが、後にそれが室戸港の名で呼ばれ、今では津呂港《つろこう》の名で呼ばれている。兼山が其の室戸港を開修した時には、権兵衛は兼山の部下として兼山に代って其の工事監督をしていた。此の権兵衛は、土佐郡《とさぐん》布師田《ぬのしだ》の生れで、もと兼山の小姓であったが、兼山が藩のために各地に土木事業を興して、不毛の地を開墾したり疏水《そすい》を通じたりする時には、いつも其の傍にいたので、しぜんと其の技術を習得したものであった。
 権兵衛は新港開設の命を請けると、まず浮津川《うきつがわ》の川尻から海中に向けて堰堤《えんてい》を築き、港の口に当る処には、木材を立て沙俵《すなだわら》を沈めて、防波工事を施すとともに、内部を掘鑿《くっさく》して、東西二十七間南北四十二間、満潮時に一丈前後の水深が得られるように計画して、いよいよ工事に着手したところで、沙の細かな
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