男はまた飛び起きてしまつた。
「何をするんだよ、何を、」
 彼は驚いて体にまつはつた男の手を振り放さうとした。と、激しい圧迫が肩のあたりにあるのに気が付いた。
「おい、おい、どうしたんだ、夢を見たんだな、眼を覚ますが好い覚ますが好い、」
 太い青黒い顔が此方を見て口元を黄色くさしてゐた。お高は吐息をした。
「夢を見たのか、」
「ええ、厭な夢を見ました、」
「どんな夢だ、」
 青黒い顔は笑ひ声をさした、酒臭い臭がふはりと鼻に滲みた。
「判らないが、厭な夢でしたよ、」
 お高は青黒い顔から眼をそらして、天井の方を見た。白い蚊帳に青いランプの光がぼんやりと射してゐた。

 便所から帰つて来て床に這入つた青黒い顔の男は、右側の蒲団にくるまつて寝てゐる女の横顔に眼をやつた。蚊帳越しに青く射したランプの光は女の顔を綺麗に見せてゐた。女は何か云つてゐるやうに口元を動かしてゐた。
「また、今晩も、何か夢を見てゐるんだな、」と男は笑ひ心地になつて見てゐた。男の眼は綺麗な透通るやうに見える女の顔から離れなかつた。
 その時女は唸るやうな叫び声を出した。
「おい、おい、どうした、どうした、」
「大変です、大変です、助けてください、」
「夢だよ、夢だよ、夢を見てゐるから、起きるが好い、」
「助けてください、助けてください、殺しに来たんですよ、殺しに、」
「夢だよ、夢だよ、夢を見てゐるんだよ、それ、夢だから覚めるが好い、」
 女は男に取り縋つた手を緩めた。
「夢だよ、夢を見てゐたんだ、誰が殺しに来るもんか、」
「夢でせうか、」
「夢だよ、誰に追つかけられたんだ、」
 女はちよつと黙つてゐた。
「誰やら判らないが、変な男に、殺すと云つて追つかけられたんですよ、私が怪物だから、」
 男は笑ひ出した。
 二人は間もなく眠つたが眠つてゐる中に、何か物音が耳についたので青黒い顔の男がふと眼を開けた。傍に寝てゐる女の枕元に一人の男が突立つてそれが右の手に刃物を持つてゐた。ランプの光りはその刃先を染めた恐ろしい血の色を見せた。
 青黒い顔の男は大声をたてながら蚊帳の外へ飛び出して逃げた。

          三

 源吉は桑と唐黍との間に挾まつた小路を歩いてゐた。陽が入つたばかりの西の空には黄色な夕映が残つて頭の上に二三羽の燕が低く飛んでゐた。
 源吉は生れて初めて見る土地のやうにしてあたりを見ながら歩いてゐた。一度破損した頭は三年間の病院生活にも癒つてゐなかつた。彼はぼうとした気持ちになつてゐた。さうした彼の眼は唐黍の葉に行き桑の葉に行き畑の端の人家の屋根に行き黄色な雲の浮んだ空にと行つた。二声三声鳴いた牛の声は耳に入らなかつた。
 村の本通に出て荒物屋の前へ行つた時、中から一人の老婆が四合ビンに酒のやうなものを買つて出て来たが、出合頭に源吉と顔を見合はした。源吉にはその老婆の顔が何人であるのかちよつと思ひ出せなかつたが、老婆の方には直ぐ判つたのか茶色の眼を光らして突つかゝるやうに進んで来た。
「やい源吉ぢやないか、どの面さげて帰つて来た、この鬼、畜生、」
 源吉は驚いて眼を見張つた。
「何人だ、お高さんとこのおつ母か、」
「よく覚えてるな、畜生、鬼、何の恨みがあつてお高を殺したんだ、云つてみろ」
 老婆はもう涙声になつてゐた。源吉は驚いて口をもぐもぐさした。
「この鬼、畜生、何の恨みがあつてお高を殺した、さア云へ、その恨みを云へ、」
「小母さん、お前は何を云ふんだ、俺がお高さんを殺した、」
「白ばくれるな、その手でお上を欺したらう、本当なら、手前は人を殺したから殺される所だが、偽狂人になりやがつて、俺はその手には乗らんぞ」
「小母さん、それでは俺がお高さんを殺したのか、」
「白ばくれるな、鬼、畜生、偽狂人になつて、よくもよくも殺したな、お高の仇は俺が打つぞ、」
 源吉は青い顔をして考へ込んだ。
「さあ、訳を云え、訳を聞いてやる、」
 源吉は片手をあげて老婆の言葉を押へるやうにした。
「小母さん、待つてくれ、俺は白ばくれもせん、嘘も云はん、本当に俺は何も知らなかつた、何のために狂人病院へ這入つたのか、ちつとも判らなかつた、伯父も何も云つてくれない、昨日帰つたから、落ちついたなら聞かうと思つてをつた、さうか、それは、」
 源吉は大きな呼吸を吐いて俯向いたなりにまた考へ込んだ。
「人の娘を殺しあがつて、知らなかつたもよく云へた、まだ手前にも云ひたいこともあるが、また今度にする、」
 老婆は気が折れたやうに源吉を離れて向ふの方へ歩き出した。もう薄暗くなつてゐた。荒物屋の前にも二三人反対の側にも五六人の者が立つて二人の容子をぢつと見てゐた。
 源吉はやつと顔をあげて老婆の行つた方を見た。老婆の姿はもう見えなかつた。その源吉の眼に青い月の光の漂うた海岸の松原が見え麦の
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