着物のことは何も云はなかつた、」
「着物は、明後日でないと出来ないから、出来次第、お母が持つて来ると云つてたよ、」
「さう、その他に、何もことづけはなかつた、」
「何も云はなかつたよ、……源吉さんが病気だ、」
「どんな病気、何時から、」
「昨日の晩から妙な病気になつて、たはことを云つてると、お母が云つたよ、」
「たはことつて、どんなことを云つてるだらう、熱でもあるだらうか、」
「人夫から戻つて、仕事もせずに、酒ばかり飲んで、のらこいてるから、何か悪い物にとツツかれたものだらうと、お母が云つたよ、」
お高の顔に曇がかゝつた。
「源吉さんは、この頃、人の寝た後にも、お宮の中を歩いたり、海の方へ来たり、馬鹿のやうに、ひよいひよい歩いてるから、狐にでもとツツかれたもんだよ、」
「お前も、源ちやんの歩いてるところを、見たことがある、」
「俺は見ない、お母や、前の小母さんが話しをしたよ、」
お高はふと気をそらした。
「さうさう、好いお菓子がある、お前が来たらあげやうと思つてた、」
お高はかう云つて立ちあがつて次の室へ這入つて行つたが、黒い丸い鑵を持つて来て口を開け開け坐つた。
「皆お前にあげるから、食べておいて、後を取つて行くが好い、」
それは青や赤の色をつけた碁石の形をした西洋菓子であつた。少年はそれをぼつぼつ撮みはじめた。
「源ちやんは、家へ来る、」
「来ないよ、」
少年の心はもう菓子ばかりになつてゐた。お高は考へ込んでしまつた。
少年が帰つた後でお高は横に寝そべつて面長の片頬を片手にささへてゐた。網の目のやうな黒い影が体一面にもつれかかつて何処を見ても明るい凉しいものは見えなかつた。彼はどうかしてその中から出よう出ようと苦しんでゐた。
……黄色になりかけた麦や青青とした桑畑の緑が何処かにちらちらと動いて来た。人家の屋根が見え砂利を敷いた村の路が見えたかと思ふと、淡竹の垣根をした藁葺の小家の裏口が其所にあつた土間へ履物を脱いてそつとあがりながら見ると、男は何時も寝てゐるアンペラを敷いた室に、汚い浅黄の蒲団をかけて俯向きになつてゐた。
「源ちやん、源ちやん」
男は睡つてゐるのか返事もしなければ顔もあげない。やつと睡つてをるものを起しては病気のためによくないと思つたのでそのまゝ黙つて見てゐた。耳のあたりから首筋が真黒になつてそれがげつそりと痩せてゐる、枕元には土鍋に入れたお粥や膳を置いてあるが、病人が手をつけないのか、茶碗も汚れてゐなければ、小皿に盛つた味噌もそのまゝになつてゐる。
「小父さんの所から、誰かが来て、世話をしてゐるのか、それとも西隣のお松婆アさんでも来て、見てくれるだらうか、本当に可愛想だ、」
男は不意に顔をあげて何処を見るともなく眼をきよときよとさした。
「なる程、芳夫の云ふ通り、おかしな病気にかゝつてる、これはどうかしないといけない、」と相談しようと思つて声をかけやうとしてゐると不意に男の眼が光つた。男はうなり声を立てた。
「貴様は、あの怪物か、やつて来たな、」
「私は、お高ですよ、気を沈めておくれ、」
悲しくて泣きたいのをじつと忍へた。
「怪物だ、怪物だ、俺を悩ましにやつて来たな、」
男は恐ろしい顔して睨み詰めた。
「源ちやん、源ちやん、気を確に持つておくれ、お高だよ、」
「そのお高が怪物だ、一昨日の晩、正体を見届けた、怪物奴、」
「怪物ぢやないよ、お高だよ、気を確に持つておくれよ」
「まだそんなことを云ふか、怪物奴、」
「まア、お前さんは、」
男は獣のやうに飛びあがつた。
「この怪物奴、」
お高は自分の立てた大声が耳に這入つた。彼は頬杖を放して顔を畳の上に落したところであつた。彼は急いで顔をあげながら眼を開けてあたりを見た。庭の花壇の傍で水をやつてゐた下男の作平爺が、如露を持つたなりに振り返つて、不思議さうに此方を見てゐた。
薄暗いランプの光りを受けた眼がぎらぎらと光つた。
「また来やがつたな、怪物奴、」
何故自分を怪物だなどと云ふうだらうとちよつと考へてみたが判らない。
「何故、そんなことを云ふの、お高だよ、怪物ぢやないよ、」
「怪物だ、正体をちやんと見届けてあるぞ、」
「何を見届けたの、云つておくれ、何んで私が、怪物だよ、」
「怪物だ、怪物と云つたら怪物だ、」
やはりそれも病気の所為だどうかしてこの病気が癒らないだらうか。
「病気だよ、お前さん、病気だから、そんなことを云ふんだよ、早く病気を癒しておくれ、」
「まだ、そんなことを云ふか、この怪物、殺してしまうぞ、」
一層殺して貰ふた方が好い死んでしまへばこんな苦しいこともない。
「殺されても好いよ、私は殺されても好いが、お前さんの病気が心配だ、早く癒しておくれよ、お金は私がどうでもする、」
「この怪物、本当に殺してしまふぞ、」
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