嬰寧
蒲松齢
田中貢太郎訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)王子服《おうしふく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|茅葺《かやぶき》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/呂」、第3水準1−90−87]《きょ》
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王子服《おうしふく》は※[#「くさかんむり/呂」、第3水準1−90−87]《きょ》の羅店《らてん》の人であった。早くから父親を失っていたが、はなはだ聡明で十四で学校に入った。母親がひどく可愛がって、ふだんには郊外へ遊びにゆくようなこともさせなかった。蕭《しょう》という姓の家から女《むすめ》をもらって結婚させることにしてあったが、まだ嫁入って来ないうちに没《な》くなったので、代りに細君となるべき女を探していたが、まだ纏《まと》まっていなかった。
そのうちに上元《じょうげん》の節となった。母方の従兄弟《いとこ》に呉《ご》という者があって、それが迎いに来たので一緒に遊びに出て、村はずれまでいった時、呉の家の僕《げなん》が呉を呼びに来て伴《つ》れていった。王は野に出て遊んでいる女の多いのを見て、興にまかせて独りで遊び歩いた。
一人の女《むすめ》が婢《じょちゅう》を伴《つ》れて、枝に着いた梅の花をいじりながら歩いていた。それは珍らしい佳《い》い容色《きりょう》で、その笑うさまは手に掬《すく》ってとりたいほどであった。王はじっと見詰めて、相手から厭《いや》がられるということも忘れていた。女は二足三足ゆき過ぎてから婢を振りかえって、
「この人の眼は、ぎょろぎょろしてて、盗賊《どろぼう》みたいね。」
といって、花を地べたに打っちゃり、笑いながらいってしまった。王はその花を拾ったが悲しくて泣きたいような気になって立っていた。そして魂のぬけた人のようになって怏怏《おうおう》として帰ったが、家へ帰ると花を枕の底にしまって、うつぶしになって寝たきりものもいわなければ食事もしなかった。
母親は心配して祈祷《きとう》したりまじないをしたりしたが、王の容態はますます悪くなるばかりで、体もげっそり瘠《や》せてしまった。医師が診察して薬を飲まして病気を外に発散させると、ぼんやりとして物に迷ったようになった。母親はその理由《わけ》を聞こうと思って、
「お前、どうしたの。お母さんには遠慮がいらないから、いってごらんよ。お前の良いようにしてあげるから。」
といって優しく訊《き》いても黙って返事をしなかった。そこへ呉が遊びに来た。母親は呉に悴《せがれ》の秘密をそっと聞いてくれと頼んだ。そこで呉は王の室へ入っていった。王は呉が寝台の前に来ると涙を流した。呉は寝台に寄り添うて慰めながら、
「君は何か苦しいことがあるようだが、僕にだけいってくれたまえ。力になるよ。」
といって訊いた。王はそこで、
「君と散歩に出た日にね。」
というようなことを前おきにして、精《くわ》しく事実を話して、
「どうか心配してくれたまえ。」
といった。呉は笑って、
「君も馬鹿だなあ、そんなことはなんでもないじゃないか。僕が代って探してみよう。野を歩いている女だから、きっと家柄の女じゃないよ。もし、まだ許嫁《いいなづけ》がなかったなら、なんでもないし、許嫁があるにしても、たくさん賄賂をつかえば、はかりごとは遂《と》げられるよ。まァそれよりか病気をなおしたまえ、この事は僕がきっと良いようにして見せるから。」
といった。王はこれを聞くと口を開けて笑った。
呉はそこで王の室を出て母親に知らせた。母親は呉と相談して女の居所を探したが、名もわからなければ家もわからないので、その年恰好の容色の佳い女のいそうな家を聞きあわして、それからそれと索《さが》してもどうしても解らなかった。母親はそれを心配したがどうすることもできなかった。
そして王の方は、呉が帰ってから顔色が晴ばれとして来て、食事もやっとできるようになった。
二、三日して呉が再び来た。王は待ちかねていたのですぐ問うた。
「君、あの事はどうだったかね。」
呉はほんとうの事がいえないので、でたらめをいった。
「よかったよ。僕はまただれかと思ったら、僕の姑《おば》の女《むすめ》さ、すなわち君の従妹じゃないか。ちょうどもらい手を探していたところだよ。身内で結婚する嫌いはあるが、わけをいえば纏《まと》まらないことはないよ。」
王は喜びを顔にあらわして訊いた。
「家はどこだろう。」
呉はまた口から出まかせにいった。
「西南の山の中だよ。ここから三十里あまりだ。」
王はまたそこで呉に幾度も幾度も頼んだ。
「ほんとに頼むよ。いいかね。」
「いいとも。僕が引き受けた。」
呉はそういって帰っていった。王はそれから食事が次第に多くなって、日に日に癒《なお》っていった。そして思いだしては枕の底を探して彼《か》の梅の花を出した。花は萎《しお》れていたけれどもまだ散っていなかった。王は彼の女のことを考えながら、それが彼の女でもあるようにその花をいじった。
王は呉の返事を待っていたが呉が来ないので、ふしんに思って手紙を出した。呉は用事にかこつけて来なかった。王は怒って悶えていた。母親はまた病気になられては大変だと思ったので、急に他から嫁をもらうことにして、それをちょっと相談したが、王は首を振って振りむかなかった。そして、ただ毎日呉の来るのを待っていたが、どうしても呉が来ないので、王はたちまち怒って呉を怨んだが、ふと思いなおして、三十里はたいした道でもない、他人に頼む必要がないといって、彼の梅の花を袖に入れて、気を張って出かけていった。家の人はそれを知らなかった。
王は独り自分の影を路伴《みちづ》れにしていった。そして道を聞くこともできないので、ただ南の方の山を望んでいった。ほぼ三十里あまりもゆくと、山が重なりあって、山の気が爽《さわ》やかに肌に迫り、寂《ひっそり》として人の影もなく、ただ鳥のあさり歩く道があるばかりであった。遥かに谷の下の方を見ると、花が咲き乱れて樹の茂った所に、僅《わず》かな人家がちらちらと見えていた。
王は山をおりてその村へといった。わずかしかない人家は皆|茅葺《かやぶき》であったが、しかし皆風流な構えであった。北向きになった一軒の家があった。門の前は一めんに柳が植《う》わり、牆《かき》の内には桃や杏《あんず》の花が盛りで、それに長い竹をあしらってあったが、野の鳥はその中へ来て格傑《かっけつ》と鳴いていた。
王はどこかの園亭《にわ》だろうと思ったので、勝手には入らなかった。振りむくとその家の向いに、大きな滑らかな石があった。王はそれに腰をかけて休んでいた。と、牆の内に女がいて、声を長くひっぱって、
「小栄《しょうえい》。」
と呼ぶのが聞えた。それはなまめかしい細い声であった。王はそのままその声を聞いていると、一人の女が庭を東から西の方へゆきながら、杏の花の小枝を執《と》って、首を俯向《うつむ》けて髪にさそうとして、ひょいと頭を挙《あ》げた拍子《ひょうし》に王と顔を見あわすと、もうそれをささずににっと笑って花をいじりながら入っていった。それは上元の日に遭った彼の女であった。王はひどく喜んで、すぐ入っていきたいと思ったが、姨《おば》の名も知らなければ往復したこともないので、何といって入っていっていいかその口実《こうじつ》がみつからなかった。そうかといって門内に訊《き》くような人もいないので訊くこともできなかった。王は仕方なしに朝から夕方まで、石に腰をかけたりその辺を歩いたりして、その家に入ってゆく手がかりを探していたので、ひもじいことも忘れていた。その時彼の女が時どき半面をあらわして窺《のぞ》きに来て王がそこにいつもいるのを不審がるようであった。夕方になって一人の老婆が杖にすがって出て来て王にいった。
「どこの若旦那だね。朝から来ていなさるそうだが、何をしておりなさる。ひもじいことはないかね。」
王は急いで起《た》ってお辞儀して、
「私は親類を見舞おうと思って、来ているのです。」
といったが、老婆は耳が遠いので聞えなかった。そこで王はまた大きな声でいった。それはやっと聞こえたと見えて、
「親類は何という苗字だね。」
といったが、王は苗字を知らないので返事ができなかった。老婆は笑っていった。
「苗字を知らずに、どうして親類が見舞われるのだよ。お前さんは書《ほん》ばかり読んでいる人だね。私の家へお出でよ、御飯でもあげよう。汚い寝台もあるから、明日の朝帰って、苗字を聞いてまた来るがいいよ。」
王はその時空腹を感じて物を喫《く》いたかった。また彼の美しい女の傍《そば》へいくこともできる。王は大喜びで老婆について入っていった。
門の内は白い石を石だたみにして、紅《あか》い花がその道をさしはさみ、それが入口の階段にちらちらと散っていた。西へ折れ曲ってまた一つの門を潜《くぐ》ると、豆の棚《たな》と花の架《たな》とが庭一ぱいになっていた。老婆は王を案内して家の内へ入った。白く塗った壁が鏡のようにてらてらと光って、窓の外には花の咲き満ちた海棠《かいどう》の枝が垂れていて、それが室の内へもすこしばかり入っていた。室の内は敷物、几《つくえ》、寝台にいたるまで、皆清らかで沢《つや》のある物ばかりであった。
王が腰をおろすと、窓の外へだれかが来て窺くのがちらちら見える。老婆が、
「小栄、早く御飯をこしらえるのだよ。」
というと、外から女がかんだかい声で、
「へい。」
と返辞をした。そこで二人の坐が定まったので、王が精しく自分の家柄を話した。すると老婆が、
「お前さんの母方のお祖父《じい》さんは、呉という姓じゃなかったかね。」
といった。そこで王が、
「そうです。」
というと、老婆は驚いた。
「では、お前さんは、私の甥《おい》だ。お母さんは私の妹だ。しょっちゅう貧乏しているうえに、男手がないから、ついつい往来もしなかったが、甥がこんなに大きくなってるのに、まだ知らなかったとは、どうしたことかなあ。」
王はいった。
「私がここへ来たのは、姨《おば》さんを見舞いに来たのですよ。ついあわてたものですから、苗字を忘れたのですよ。」
老婆はいった。
「私の苗字は秦《しん》だよ。ついぞ子供はなかったが、妾《めかけ》にできた小さな子供があって、その母親が他へ嫁にいったものだから、私が育てているが、それほど馬鹿でないよ。だが躾《しつけ》がたりないでね、気楽で悲しいというようなことは知らないよ。今、すぐここへ来させて逢わせるがね。」
間もなく婢が飯を持って来た。肥った鶏の雛などをつけてあった。老婆は王に、
「何もないがおあがりよ。」
といって勧めた。王がいうままに膳について食べてしまうと、婢が来て跡始末をした。老婆はその婢にいった。
「寧子を呼んでお出で。」
「はい。」
婢が出ていってからやや暫くして、戸外《そと》でひそかに笑う声がした。すると老婆は、
「嬰寧《えいねい》、お前の姨《おば》さんの家の兄さんがここにいるよ。」
といった。戸外では一層笑いだした。それは婢が女を伴《つ》れにいっているところであった。婢は女を推《お》し入れるようにして伴れて来た。女は口に袖を当ててその笑いを遏《と》めようとしていたが遏まらなかった。老婆はちょと睨《にら》んで、
「お客さんがあるじゃないかね。これ、これ、それはなんということだよ。」
といった。女はやっと笑いをこらえて立った。王はそれにお辞儀をした。老婆は女に向っていった。
「これは王さんといって、お前の姨さんの子供だよ。一家の人も知らずにいて、人さまを笑うということがありますか。」
王は老婆に、
「この方はおいくつです。」
と女の年を問うた。老婆にはそれが解らなかったので、王はまた繰りかえした。すると女がまた笑いだして顔をあげることができなかった。老婆は王に向っていった。
「私の躾がた
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