りないといったのは、それだよ。年はもう十六だのに、まるで、嬰児《あかんぼ》のようだよ。」
 王はいった。
「私より一つ妹ですね。」
 老婆はいった。
「おお、お前さんは、もう十七か。お歳になるのだね。」
 王はうなずいた。
「そうですよ。」
 老婆が訊いた。
「お前さんのお嫁さんは、何という人だね。」
「まだありませんよ。」
「お前さんのような才貌《きりょう》で、なぜ十七になるまでお嫁さんをもらわないね。嬰寧もまだ約束もないし、まことに良い似合だが、惜しいことには身内という、かかわりがあるね。」
 王は何もいわずに嬰寧をじっと見ていて、他へ眼をやる暇がなかった。婢は女に向って小声で囁《ささや》いた。
「眼がきょろきょろしていますから、まだ盗賊《どろぼう》がやまないでしょう。」
 女はまた笑いながら娘を見かえって、
「花桃が咲いたか咲かないか、見て来ようよ。」
 といって、急いで起ち、袖を口に当てながら、刻み足で歩いていった。そして門の外へ出たかと思うと崩れるように大声を出して笑った。老婆も体を起して、婢を呼んで王のために夜具の仕度をさしながら王にいった。
「お前さん、ここへ来るのは容易でないから、来たからにゃ、三日や五日は逗留《とうりゅう》していくがいいよ、ゆっくりお前さんを送ってあげるから。もし欝陶《うっとう》しいのが嫌でなけりゃ、家の後には庭がある。気ばらしをするがいいよ。書物もあるから読むがいい。」
 翌日になって王は家の後へ歩いていった。果して半畝位の庭があって、細かな草が毛氈《もうせん》を敷いたように生え、そこの逕《こみち》には楊柳《やなぎ》の花が米粒を撒《ま》いたように散っていた。そこに草葺《くさぶき》の三本柱の亭《あずまや》があって、花の木が枝を交えていた。
 王は小刻みに歩いてその花の下をいった。頭の上の樹の梢《こずえ》がざわざわと鳴るので、ふいと顔をあげてみた。そこに嬰寧があがっていたが、王を見つけるとおかしくておかしくてたまらないというように笑いだした。王ははらはらした。
「およしよ、おっこちるよ。」
 嬰寧は木からおりはじめた。おりながらとめどもなしに笑って廃《よ》すことができなかった。そして、やっと足が地にとどきそうになってから、手を滑らして堕ちた。それと一緒に笑いもやんだ。王は嬰寧を扶け起したが、その時そっとその腕をおさえたので、嬰寧の笑いがまたおこった。嬰寧は樹にかきつくようにして笑って歩くこともできなかったが、暫くしてやっとやんだ。
 王は嬰寧の笑いやむのを待って、袖の中から彼の萎《しお》れた梅の花を出して、
「これを知ってるの。」
 といった。嬰寧は受け取っていった。
「枯れてるじゃないの。なぜ、こんな物を持ってるの。」
「これは上元の日に、あんたがすてたものじゃないか。だから持っているのだよ。」
「持っててどうするの。」
「あんたを愛するためだよ。上元の日にあんたに逢ってから、思いこんで病気になって、もう死ぬるかと思ったのだよ。それがこうして逢えたから、気の毒だと思っておくれよ。」
 嬰寧はいった。
「そんなことなんでもないわ。親類の間柄ですもの、兄さんがお帰りの時、老爺《じいや》を呼んで来て、庭中の花を大きな篭《かご》へ折らせて、おぶわしてあげますから。」
 王はいった。
「馬鹿だなあ。」
 嬰寧はいった。
「なぜ、馬鹿なの。」
 王はいった。
「私は花が好きじゃないよ、花を持っていた人が好きなのだよ。」
 嬰寧はいった。
「親類じゃないの、愛するのはあたりまえだわ。」
 王はいった。
「私が愛というのは、親類の愛じゃないよ、つまり夫婦の愛だよ。」
 嬰寧はいった。
「親類の愛だっておんなじじゃないの。」
「夫婦になったら一緒にいるのだよ。」
 嬰寧は俯向《うつむ》いて考えこんでいたが、暫《しばら》くしていった。
「私、知らない人と一緒にいたことないわ。」
 その言葉のまだ終らない時に、婢がそっとやって来たので、王はあわてて逃げた。
 暫くして王と女は、老婆の所で逢った。老婆は嬰寧に訊いた。
「どこへいってたね。」
 嬰寧はいった。
「庭で話していたわよ。」
 老婆はいった。
「とうに御飯ができてるのに、何の話をしていたのだよ。またお喋りをしていたのだろう。」
 嬰寧はいった。
「兄さんが私と一緒に……。」
 王はひどく困って急に嬰寧に目くばせした。嬰寧はにっと笑ってよした。しかし幸にしてそれは老婆に聞えなかったが、そのかわり老婆はくどくどと嬰寧の長く帰らなかった理由を訊いた。そこで王は他のことをいって打ち消し、そのうえで小声で嬰寧を責めた。
「あんな馬鹿なことをいうものじゃないよ。」
 すると嬰寧がいった。
「あんなことをいってはいけないの。」
 王はいった。
「そんなことをいうのは、人に背《そむ》くというのだよ。」
 嬰寧はいった。
「他人に背いても、お祖母《かあ》さんには背かれないわ。それに一緒にいることなんて、あたりまえのことじゃないの、何も隠さなくってもいいじゃないの。」
 王は嬰寧に愚《おろ》かな所のあるのを残念に思ったが、どうすることもできなかった。
 食事がちょうど終った時、王の家の者が二|疋《ひき》の驢《ろば》を曳《ひ》いて王を探しに来た。それは王が家を出た日のことであった。王の母親は王の帰りを待っていたが、あまり帰りが遅いので始めて疑いをおこし、村中を幾日も捜してみたがどこにもいなかった。そこで呉の家へいった。呉はでたらめにいった自分の言葉を思いだして、西南の山の方へいって尋ねてみよと教えた。家の者は幾個かの村を通って始めてここに来たのであった。王は門を出ようとして、その人達に逢ったのであった。王はそこで入っていって老婆に知らし、そのうえ嬰寧を伴《つ》れて帰りたいといった。老婆は喜んでいった。
「私がそう思っていたのは、久しい間のことだよ。ただ私は、遠くへいけないから、お前さんが伴れて、姨《おば》さんに見知らせてくれると、好い都合だよ。」
 そこで老婆は、
「寧子や。」
 といって嬰寧を呼んだ。嬰寧は笑いながらやって来た。老婆は、
「何の喜しいことがあって、いつもそんなに笑うのだよ。笑わないと一人前の人なのだが。」
 といって、目に怒りを見せていった。
「兄さんがお前を伴れていってくれるというから、仕度をなさいよ。」
 老婆はまた使の者に酒や飯を出してから、一行を送りだしたが、その時嬰寧にいった。
「姨《おば》さんの家は田地持ちだから、余計な人も養えるのだよ。あっちにいったなら、どうしても帰ってはいけないよ。すこし詩や礼を教わって、姨さんに事《つか》えるがいい。そして、姨さんに良い旦那をみつけてもらわなくちゃいけないよ。」
 二人は出発して山の凹みにいって振りかえった。ぼんやりではあるが老婆が門に倚《よ》って北の方を見ているのが見えた。やがて二人は王の家へ着いた。母親は美しい女を見て訊いた。
「これはどなた。」
 王は、
「それは姨さんの家の子供ですよ。」
 といった。母親は、
「姨って、いつか呉さんのいったことは、うそですよ。私には姉なんかありませんよ、どうして甥《めい》があるの。」
 といって、嬰寧の方を向いていった。
「ほんとに私の甥《めい》なの。」
 嬰寧はいった。
「私、お母さんの子じゃないの。お父様は秦という苗字なの。お父様の没《な》くなった時、私、あかんぼでしたから、何も覚えはありませんの。」
 王親はいった。
「そういえば、私の一人の姉が、秦《しん》へ嫁入ってたことは確かだが、没くなってもう久しくなっているのに、なんでまた生きているものかね。」
 そこで顔の恰好や痣《あざ》や贅《いぼ》のあるなしを訊いてみると一いち合っている。しかし母親の疑いは晴れなかった。
「そりゃ合ってるがね。しかし没くなって、もう久しくなる。どうしてまた生きているものかね。」
 判断がつきかねている時、呉が来た。嬰寧は避けて室の中へ入った。呉は理由を聞いて暫くぼんやりしていたが、忽《たちま》ちいった。
「女は嬰寧といいやしないかい。」
「そうだよ。」
 と王がいった。呉は、
「いや、そいつは、怪しいよ。」
 といった。王は呉が女の名を知っていることを先ず聞きたかった。
「君はどうしてその名を知っているね。」
「秦の姑《おば》さんが没くなった後で、姑丈《おじ》さんが鰥《やもめ》でいると、狐がついて、瘠《や》せて死んだが、その狐が女の子を生んで、嬰寧という名をつけ、むつきに包んで牀《とこ》の上に寝かしてあるのを、家の者は皆見ていたのだ。姑丈《おじ》が没くなった後でも、狐が時おり来ていたが、後に張天師のかじ符《ふだ》をもらって、壁に貼《は》ったので、狐もとうとう女の子を伴れていったのだか、それじゃないかね。」
 皆で疑っている時、室の中からくつくつと笑う声が聞えて来た。それは嬰寧の笑う声であった。母親はいった。
「ほんとに彼《あ》の子は馬鹿だよ。」
 呉が女に逢ってみようといいだした。そこで母親が室の中へ呼びにいった。嬰寧はまだ大笑いに笑っていてこっちを向かなかった。
「ちょっとおいでなさいよ。逢わせる人があるから。」
 嬰寧は始めて力を入れて笑いをこらえたが、また壁の方に向ってこみあげて来る笑いをこじらしているようにしていて、時を移してからやっと出たが、わずかに一度お辞儀をしたのみで、もうひらりと身をかえして室の中へ入って、大声を出して笑いだした。それがために家中の婦《おんな》が皆ふきだした。
 呉はその不思議を見きわめて、異状がなければ媒酌人《ばいしゃくにん》になろうといって、西南の山の中の村へ尋ねていった。そこには家も庭もまったくなくて、ただ木の花が落ち散っているばかりであった。呉は姑《おば》の墓がそのあたりにあるような気がしたが、何も墓らしいものが見えないので、疑い怪しみながら帰って来た。
 母親は呉の報告を聞いて、嬰寧を幽霊ではないかと疑って、その室へ入っていって、
「お前さんの家は、ないというじゃないか、どうしたの。」
 といったが、嬰寧はべつにあわてもしなかった。
「お気の毒ねえ、家がなくなって。」
 ともいったが、べつに悲しみもせずに笑うばかりであった。
 嬰寧は何につけても笑うばかりであるから、だれもその本姓を見きわめることはできなかった。母親は夜、嬰寧と同じ室に寝ていた。嬰寧は朝早く起きて朝のあいさつをした。裁縫をさしていると手がうまかった。ただ善く笑うだけは止めても止まらなかった。しかし、その笑いはにこにこしていて、狂人のように笑っても愛嬌《あいきょう》をそこなわなかった。それで人が皆楽しく思って、隣の女や若いお嫁さん達が争って迎えた。
 母親は吉日を択《えら》んで王と嬰寧を結婚させることにしたが、しかし、どうも人間でないという恐れがあるので、ある日、嬰寧が陽《ひ》の中に立っているところを窺《のぞ》いてみた。影がはっきりと地に映っていてすこしも怪しいことはなかった。そこで母親はその日が来ると華かな衣装を着せて儀式の席へ出したが、嬰寧がまた笑いだして顔をあげることができないので、儀式はとうとうできずに終った。王は嬰寧が馬鹿なために二人の間の秘密を漏らしはしないかと恐れたが、それは決して漏らさなかった。
 母親が心配したり腹を立てたりする時に、嬰寧が傍へいって一度笑うと、それでなおってしまった。婢《じょちゅう》や奴《げなん》が過《あやま》ちをしでかして、主婦に折檻《せっかん》せられるような時には、嬰寧の所へ来て、一緒にいって話してくれと頼むので、一緒にいってやるといつも免《ゆる》された。
 嬰寧は花を愛するのが癖になっていた。そっと金の釵《かんざし》を質に入れて、その金で親類の家をかたっぱしから探して、佳《よ》い花の種を買って植えたが、数月の中に、家の入口、踏石《ふみいし》、垣根《かきね》、便所にかけて花でない所はなくなった。庭の後に木香《もっこう》の木の棚があった。それは元から西隣の家との境にあった。嬰寧はいつもその棚の上に攀《よ》じ登って、薔薇《ばら
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