。そこには家も庭もまったくなくて、ただ木の花が落ち散っているばかりであった。呉は姑《おば》の墓がそのあたりにあるような気がしたが、何も墓らしいものが見えないので、疑い怪しみながら帰って来た。
母親は呉の報告を聞いて、嬰寧を幽霊ではないかと疑って、その室へ入っていって、
「お前さんの家は、ないというじゃないか、どうしたの。」
といったが、嬰寧はべつにあわてもしなかった。
「お気の毒ねえ、家がなくなって。」
ともいったが、べつに悲しみもせずに笑うばかりであった。
嬰寧は何につけても笑うばかりであるから、だれもその本姓を見きわめることはできなかった。母親は夜、嬰寧と同じ室に寝ていた。嬰寧は朝早く起きて朝のあいさつをした。裁縫をさしていると手がうまかった。ただ善く笑うだけは止めても止まらなかった。しかし、その笑いはにこにこしていて、狂人のように笑っても愛嬌《あいきょう》をそこなわなかった。それで人が皆楽しく思って、隣の女や若いお嫁さん達が争って迎えた。
母親は吉日を択《えら》んで王と嬰寧を結婚させることにしたが、しかし、どうも人間でないという恐れがあるので、ある日、嬰寧が陽《ひ》の中に立っているところを窺《のぞ》いてみた。影がはっきりと地に映っていてすこしも怪しいことはなかった。そこで母親はその日が来ると華かな衣装を着せて儀式の席へ出したが、嬰寧がまた笑いだして顔をあげることができないので、儀式はとうとうできずに終った。王は嬰寧が馬鹿なために二人の間の秘密を漏らしはしないかと恐れたが、それは決して漏らさなかった。
母親が心配したり腹を立てたりする時に、嬰寧が傍へいって一度笑うと、それでなおってしまった。婢《じょちゅう》や奴《げなん》が過《あやま》ちをしでかして、主婦に折檻《せっかん》せられるような時には、嬰寧の所へ来て、一緒にいって話してくれと頼むので、一緒にいってやるといつも免《ゆる》された。
嬰寧は花を愛するのが癖になっていた。そっと金の釵《かんざし》を質に入れて、その金で親類の家をかたっぱしから探して、佳《よ》い花の種を買って植えたが、数月の中に、家の入口、踏石《ふみいし》、垣根《かきね》、便所にかけて花でない所はなくなった。庭の後に木香《もっこう》の木の棚があった。それは元から西隣の家との境にあった。嬰寧はいつもその棚の上に攀《よ》じ登って、薔薇《ばら
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