てゐた。それは先き店へ来た老婆の様であつた。
「遅くなつてすみません、」
「旨い物はさう手取早く出来るもんではないよ、へ、へ、へ、さあ此方へお出でよ、」
老婆は萠黄の茎を分けるやうにしてひよろひよろと歩いて行つた。お菊さんはその後から歩いた其所はもう傾斜はなくなつてゐたが、雲の上にゐるやうで足に踏堪へがなかつた。
「此所だよ、此所からお這入りよ、」
お菊さんはもう玄関のやうな青醒た光の中に立つてゐた。
「旦那、旦那、やつと来ましたよ、」
老婆の声がしたかと思ふと太つた青膨れた北村さんの顔が眼の前に見えて来た。お菊さんはほつとした。その拍子にお菊さんの呼吸があぶくのやうになつて口からぶくぶくと出た。
お菊さんは北村へ出前を持つて行つたきり帰らなかつた。バーでは手分けをして捜索したが、だいいち北村と云ふ家もなければ、何所へ行つたのかさつぱり判らなかつた。しかし客には失踪したとも云へないので、聞く者があると、
「芝の親類へお嫁に行つたんですよ、」
と云つてゐた。ところが或る雨の降る静な晩、時たま店へ来る童顔の頬髯の生えた老人がやつて来た。老人は何所で飲んだのかぐてぐてに酔つて顔を赭
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