くれた。
「一杯ささう、おなじみになる標だ、」
「さう、では、ちよと戴きます、」
「ちよつとは駄目だよ、多く飲まないと忘れて標にならないよ、」
客はビール壜を持つてなみなみと酌をしてくれた。
「では、どつさり戴きます、」
その客は北村さんと云ふ客であつた。
「すぐこの近所でございますの、」
「すぐ其所だよ、先月越して来たばかしなんだ、深川の方にゐてね、」
「大変遠方からいらつしやいましたね、」
「さうだ、深川の方で工場をやつてたが、厭になつたからね、家に使つてる奴に譲つてしまつたんだよ、」
もしかすると奥さんが亡くなつたので、それで何をするのも厭になつて、この山の手に引つ込んだのぢやないかと思つた。
「人を使つてやる仕事は煩さいもんでね、金にはかかはらないよ、」
「さうでございませうね、」
なんの工場であつたか知りたかつたので、
「なんの工場でございます、」
「つまらん工場さ、針工場だよ、」
針工場の意味が判らなかつた。
「針工場つて、どんなことをする工場……、」
「メリヤスを織る針だよ、」
他に何人も客がなくて、それでお幸ちやんが出前を持つて行つたことがあつた。北村さんの
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