「それがどうしたんだ、」
「面白いのよ、昨夜……、」
 お幸ちやんはそれから声を一段と小さくして話しだした。お菊さんはまた入口の方に眼をやつて北村さんのことを考へだした。お菊さんの眼の前には、肥つた色の青白い、丸顔の線の軟らかなふわりとした顔が浮かんでゐた。この月になつて雨が降りだした頃から来はじめた客は、魚のフライを注文して淋しさうにビールを飲んだ。
「此所は面白い家だね、これからやつて来るよ、」
 と客が心持好ささうに云ふので、
「どうぞ、奥さんに好くお願ひして、ゐらつしやつてくださいまし、」
 と笑ふと、
「私には、その奥さんが無いんだ、可愛さうぢやないか、」
 客は金の指環の見える手でビールのコツプを持ちながら笑つた。
「御冗談ばつかし、」
「冗談ぢやないよ、本当だよ、先月亡くなつたんだよ、だからかうして飲みに来るんぢやないか、」
 その云ひ方が何方かしんみりして嘘のやうでないから、涙ぐましい気持になつた。
「本当、」
「本当とも、だから可愛がつてくれないといけないよ、」
「お気の毒ですわ、ね、え、」
「お気の毒でございますとも、」
 客は淋しさうに笑つて飲んでしまつたコツプを
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