った。飯田は驚いた。それは甲府の町にいるはずの妻ではないか。彼は一昨年甲府を脱走して京都に入り、勤王の士と往来しているうちに、鳥羽伏見の役となり、それから討幕の軍がおこったので、彼も土佐藩の手に属して故郷に来たものの、幕兵との戦《いくさ》があったために、甲府の町に往くこともできなかったが、二三日のうちには、隙を見て妻を訪《おとな》おうと心|窃《ひそか》に喜んでいるところであった。彼は手にしている鉄扇を執り落そうとして気が注《つ》いた。
女は澄ましてその前に来て静に茶を置いた。面長な濃艶な頬から鼻にかけて生なまとした見覚えがあったが、女が余り澄ましているので、もしや人違ではないかと思ってかけようとした詞《ことば》を抑えた。女は両手を突いてうやうやしく俯向いた。白いその首筋から細そりした肩のあたりにも見覚えがあった。右の耳の下には何時も見ている小さな黒子《ほくろ》さえあった。
「お前さんは、お高じゃないか」
女は顔をあげたが冷やかな顔をしていた。
「そうではありません」
飯田は不審でたまらなかった。
「お前さんは、私の顔に見覚えはないのか」
「ありません」
こう云って女はぶ鬼魅《き
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