よ、」
独言を云ひながら入口へ出て行つて暗い方を向いて立つた。
「それ、帰つてをれ、」
引返して来た客の眼が潤んだやうに輝いて見えた。……
なんと云ふ優しい方だらう、と、お幸ちやんは思つた。お幸ちやんは不作法なことをして、さげすまれてはならないと思つたので、丁寧にコツプをその前へ持つて行つた。
「お待ち遠うでございます、料理はすぐ出来ます、」
さう云ひながら眼を客の手にした虫に注けた。客は掌の中に蝶を透すやうにしてゐた。
「あの晩も蝶が来ましたね、蝶と御縁がありますのね、」
「ああ、さうだね、この間も来たね、しかし、蝶と御縁があつたところで仕方がない、姐さんとでなくつちや、」
「御戯談ばつかり、」
お幸ちやんは娘々した声をして笑つた。
「おい、なんだい、嫌な声をするぢやないか、酒だい、ビールを持つて来い、」
浪花節の若衆が頬杖をしたまま怒鳴つた。お幸ちやんはその声に体を包んでゐた暖な靄が消えたやうな気がした。
「まだ飲むの、そんなに飲んでて、」
「ふざけるない、」
お幸ちやんは笑ひながらまた暖簾をくぐつたが、今度出て来た時には右の手に料理の皿を持ち、左の手に口を切つたビー
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