帽子にも鉄色の絽の羽織の肩のあたりにも雨の水が光つてゐた。
「大変でしたわ、ね、」
 その客を入口の左側、浪花節の若衆のゐる所へ坐らせた。
 客はウイスキーと野菜サラダを注文した。彼がその注文を聞いて客の傍を離れようとした時のことであつた。今晩の虫と変らない一匹の蛾がその客の襟元にでも這つてでもゐたかのやうにひらひら飛んだ。汚い虫が羽にくつ付けた粉をお客さんの皿の中や飲み物の中へ落してはならないと思つて、飛びあがるところを手ではたかうと思つたが、はしたない手付きをしてさげすまれるのは嫌だと思つたので、
「あれ、蝶だ、蝶だ、」
 と云つて、もどかしさうに見た。
「蝶だ、蝶だ、」
 隣のテーブルで洋服の上着を脱いで白いシャツに[#「シャツに」はママ]なつて歌つてゐた二人連の若い男の一人が、扇を持つて立ちあがりながら体を向ふ斜に延ばした。
「こら、蝶だ、」
 扇の先が蛾に届きさうになつて見えた。と、綺麗な顔の客は立ちあがつて手を延べた。
「俺が逃がしてやらう、」
 蛾はその客の掌に直ぐ入つて来た。客は手を壺のやうにすぼめて中に入つてゐる蛾を覗くやうにした。
「可愛い虫ぢやないか、人間は邪見だ
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