の羽織を着てゐた。
「おかけなさいまし、」
 お幸ちやんは会社員の連の左側にゐた私立大学の帽子を冠つた書生のゐた椅子を直した。
 客はちよいと俯向きながら腰をかけたが、手にした傘の置所に困つてもぢもぢした。
「置きませう、」
 お幸ちやんが手を出すと客はすなほにその傘を渡した。お幸ちやんはそれを棚の下の葭壁に立てかけて注文を聞かうと思つたが、なんだかはしたない口を利くのが恥かしいやうな気がしたので、静にその傍へと寄つた。
「なにかおあつらへを、」
「野菜サラダが出来るかね、」
「出来ますわ、」
「ぢや、それと、ナマを貰はうか、」
「はい、ナマと野菜サラダでございますね、」
 お幸ちやんはさう聞き直してから暖簾の口へ行つた。
「野菜サラダ一ちやう、」
 それから片手で暖簾の垂れをあげて内へ入つて行つた。
「蝶が、蝶が、蝶が来やがつた、」
 三人の客の一人が大声を出すので童顔の男はふと顔をあげた。今入つて来た客の頭の上あたりを黄いろな一匹の蛾が飛んでゐたが、それが煽風機の風に煽られるやうに斜に天井の方へと漂はされて行つた。白い壁紙を貼つた低い天井には、短冊のやうな国旗にまがへたビールの小旗
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