が来て眼の前に立つてゐた。
「おや、いらつしやいまし、」
 お幸ちやんは立ちあがつてお辞儀をしてから、左側の椅子を勧めやうとした。
「今晩はちよつと散歩に来たが、あんたが一人で退屈してゐるやうだから入つて来た。これから、私の家へ行かうぢやないか、すぐ傍だ、僕の書斎は、主屋と離れてゐて、裏門から入れば誰にも会はないよ、」
 お幸ちやんは矢鱈に一緒に行きたかつた。暖簾の口へ行つてそつと内を見ると、帳場でお菊さんとお神さんとが話してゐた。……もしお客さんが来たなら、お菊さんが出てくれるだらう、帰つて聞かれたら、何所か其所らあたりを歩いてゐたと云つとけば好い、と思つた。
「どうだね、五分か十分なら好いだらう、」
 男はお幸ちやんの顔を見て云つた。
「行つても構はないこと、」
「行かう、誰にも会はないやうに行けば好いだらう、」
 お幸ちやんは返事の代りに笑つて見せた。男はそれを見ると静に外へ出て行つた。お幸ちやんもその後を従いて外へ出た。外には雲の間から青い月の光が滲んでゐた。
「おや、月がありますのね、」
「もう、梅雨もあがるかも判らないのね、」
 男は右の方へと歩いた。お幸ちやんは一緒に並ん
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