ルのビンを持つてゐた。お幸ちやんは料理の皿を直ぐ綺麗な顔の客の前へ置いた。
「お待遠様でございました、」
 客はナマのコツプを持つてゐた。
「有難う、」
 お幸ちやんは客の左の手に眼をやつた。左の手はもうテーブルの上に置いて掌をうつむけてゐた。
「蝶はどうなさいました、」
 客はお幸ちやんの顔をぢつと斜に見上げて、突いてゐた左の手をあげ、それで右の袂をちよいと押へて見せた。
「可哀想だから、帰りに逃がしてやらうと思つて、此所へ、ね、」
「まあ、」
 お幸ちやんの眼は輝いた。
「おい、おい、酒はどうしたんだ、」
 浪花節の若衆がテーブルの上を一つドンと敲いた。お幸ちやんは急いでその前へと行つた。
「お幸ちやん、お幸ちやん、酒だ、酒だよ、」
 三人連のテーブルの所で大きな声が起つた。次のテーブルで太つた男と話してゐたお菊さんが其所へ行つた。
「なあに、お酒、お酒をつけるの、」
「お前さんぢやねえや、お幸ちやんだ、」
「随分だわ、ね、私だつて好いぢやないの、」
「いけねえ、あのお嬢さんのよそ行の恰好が見たいんだ、」
 その客は何か体を動かして、身振りをするやうな風で、お幸ちやんの口真似をして笑つた。
 お幸ちやんは振り返つた。
「馬鹿にしてゐるわ、森山さん、覚えてらつしやいよ、」
 お幸ちやんはかう云ひ云ひ暖簾の口へ行つて正宗を通したが、傍にゐる綺麗な顔の客の方へ心が行つてゐるので気が落ちつかなかつた。そしてそはそはして振り向いたが、妙にきまりが悪いので呼ばれもしないのにその傍へ行けなかつた。その客を斜に見おろすやうにしてうつとりとなり、右の手の指で軽くかはるがはるツンツンとテーブルの上を打つた。
 綺麗な顔の客は料理を食べてゐた。そして皆無にしてホークを置いた。お幸ちやんは何かもう少し注文してゆつくりしてゐてくれれば好いがと思つて、その口から注文の出るのを待つてゐた。と綺麗な顔の客はホークを置くと三分の一くらゐ残つてゐたビールに口をつけて、それを置くとお幸ちやんの顔を見あげた。
「いくら、」
 この間も料理一皿とナマ一杯で帰つて行つたこの方は、あまり飲んだり食べたりする方ではないらしい。
「お早いぢやありませんか、どうぞごゆつくり、」
「これから、ちよいちよいやつて来るよ、」
「どうかお願ひ致します、」
 お幸ちやんは首を傾げておつとりした容で料理と酒の勘定をした。
「四十五銭戴きます、」
 客は黒い小さな蟇口を胸の所で開けてゐた。
「さう、それぢや後はあんたに、」
 客は一円札を皿の傍へ置くと、帽子を直しながら起ちあがつた。
「有難うございます。またどうぞお願ひ致します、」
 お幸ちやんは客を送り出さうとして預つた傘のことを思ひ出した。彼は葭壁に凭せかけた客の雨傘を取つた。振り返つて待つてゐる客の顔がやさしく笑つてゐた。
「どうも有難う、」
 客は傘を受取つて心持頭をさげるやうにしてから出て行つて、外へ出るとちよつと立ち止まつて傘をぱつとひろげた。お幸ちやんは敷居の所へまで行つて見送つてゐた。
 傘にあたる雨の音がちよつとの間佗しく聞えてゐたが客の姿がすぐ見えなくなつた。お幸ちやんはそれでも立つてゐた。

 お幸ちやんは見付の棚の前に引寄せた椅子に腰をかけてゐた。それは夜遅く客の帰つた後であるかそれとも昼間の客の来ない時であるか、お幸ちやんの意識にはそんなことはなかつた。
 お幸ちやんの眼の前をその時黄色な蛾が飛んでゐた。お幸ちやんはその蛾を見ると共に、小柄な柔和な綺麗な男の顔を見てゐた。……本当にやさしい方だ、どうした方だらう、服装から、容貌きから、何所かの若旦那であろうが、どうも商人の家の方ではない、この附近には沢山お屋敷があるから、そのお屋敷の方だらう、そのお屋敷の方がこんな穢いバーへ来るのは、物好に何か珍しい物でも見物する気で、ゐらつしやるだらう、あんな方には今まで会つたことがない、あんな方が家の兄さんにか弟かにあつたなら、どんなに嬉しいだらう、と、お幸ちやんは、それからそれへと考へを追つて行つた。
 黄色な蛾はまだ何所かにひらひらと飛んでゐた。……人間は邪見だとあの方が仰つしやつたが、本当に人間は好い顔をしてゐて、邪見な者ばかりだ、本当にあの方の仰つしやつた通りだ、なる程穢い粉をお皿の中や盃の中へ落すのは困るが、別に悪いことをするのではない、電燈の光を追つて来て、蝶の身になれば嬉しくてたまらないので、人間がダンスでもするやうにやつてゐる所ぢやないか、それをいきなり、扇でなぐり殺さうとしたり、手で掴んで土間へ叩きつけようとしたり、本当に人間ほど邪見なものはない、人間は嫌ひだ、自分も人間を相手にしない蝶や鳥のをるやうな所へ行きたい。
「お幸ちやん、お幸ちやんと云つたね、」
 お幸ちやんはびつくりして顔をあげた。綺麗な顔の客
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