の羽織を着てゐた。
「おかけなさいまし、」
お幸ちやんは会社員の連の左側にゐた私立大学の帽子を冠つた書生のゐた椅子を直した。
客はちよいと俯向きながら腰をかけたが、手にした傘の置所に困つてもぢもぢした。
「置きませう、」
お幸ちやんが手を出すと客はすなほにその傘を渡した。お幸ちやんはそれを棚の下の葭壁に立てかけて注文を聞かうと思つたが、なんだかはしたない口を利くのが恥かしいやうな気がしたので、静にその傍へと寄つた。
「なにかおあつらへを、」
「野菜サラダが出来るかね、」
「出来ますわ、」
「ぢや、それと、ナマを貰はうか、」
「はい、ナマと野菜サラダでございますね、」
お幸ちやんはさう聞き直してから暖簾の口へ行つた。
「野菜サラダ一ちやう、」
それから片手で暖簾の垂れをあげて内へ入つて行つた。
「蝶が、蝶が、蝶が来やがつた、」
三人の客の一人が大声を出すので童顔の男はふと顔をあげた。今入つて来た客の頭の上あたりを黄いろな一匹の蛾が飛んでゐたが、それが煽風機の風に煽られるやうに斜に天井の方へと漂はされて行つた。白い壁紙を貼つた低い天井には、短冊のやうな国旗にまがへたビールの小旗を両隅から中ほど目がけて飾り付けてあつた。短冊形の沢山の小旗は煽風機の風でひらひらと躍つてゐた。蛾はその小旗の傍を苦しさうに飛んだ。
「蛾さ、蝶ぢやないよ、」
三人の客の相手をしてゐたお菊さんは、汚いその蛾を捕るつもりで手を頭の上で振つた。綺麗な顔の客は後向きに仰向いて黙つてお菊さんの手の傍を飛んでゐる蛾を見てゐた。
蛾はお菊さんの手の傍から遠退いて浪花節の若衆の頭の上の方へと飛んで行つた。お菊さんは口惜しさうに追つて行つた。
「やい、畜生、やい、どうだ、」
お菊さんが笑ひながら動かす手の傍を蛾が苦しさうに飛んだ。お幸ちやんはナマを入れたコツプを手にして暖簾の下から顔を出した。綺麗な顔の客がそれと一緒に立ちあがつた。
「俺が逃がしてやらう、さう邪見にするなよ、」
蛾はひらひらと綺麗な顔の客のさしのべた手に入つて来た。お幸ちやんの眼はその客の掌に入れた蛾に行つた。……気まぐれな梅雨の空が午時分からからりと晴れて、白い眩しい陽の光が夕方まで通路の上に光つてゐたが八時頃からまた降り出した。その雨に驚いてすぐ傍の停留場からでも駈け込んで来たらしい容で小柄な綺麗なその男が入つて来た。麦藁帽子にも鉄色の絽の羽織の肩のあたりにも雨の水が光つてゐた。
「大変でしたわ、ね、」
その客を入口の左側、浪花節の若衆のゐる所へ坐らせた。
客はウイスキーと野菜サラダを注文した。彼がその注文を聞いて客の傍を離れようとした時のことであつた。今晩の虫と変らない一匹の蛾がその客の襟元にでも這つてでもゐたかのやうにひらひら飛んだ。汚い虫が羽にくつ付けた粉をお客さんの皿の中や飲み物の中へ落してはならないと思つて、飛びあがるところを手ではたかうと思つたが、はしたない手付きをしてさげすまれるのは嫌だと思つたので、
「あれ、蝶だ、蝶だ、」
と云つて、もどかしさうに見た。
「蝶だ、蝶だ、」
隣のテーブルで洋服の上着を脱いで白いシャツに[#「シャツに」はママ]なつて歌つてゐた二人連の若い男の一人が、扇を持つて立ちあがりながら体を向ふ斜に延ばした。
「こら、蝶だ、」
扇の先が蛾に届きさうになつて見えた。と、綺麗な顔の客は立ちあがつて手を延べた。
「俺が逃がしてやらう、」
蛾はその客の掌に直ぐ入つて来た。客は手を壺のやうにすぼめて中に入つてゐる蛾を覗くやうにした。
「可愛い虫ぢやないか、人間は邪見だよ、」
独言を云ひながら入口へ出て行つて暗い方を向いて立つた。
「それ、帰つてをれ、」
引返して来た客の眼が潤んだやうに輝いて見えた。……
なんと云ふ優しい方だらう、と、お幸ちやんは思つた。お幸ちやんは不作法なことをして、さげすまれてはならないと思つたので、丁寧にコツプをその前へ持つて行つた。
「お待ち遠うでございます、料理はすぐ出来ます、」
さう云ひながら眼を客の手にした虫に注けた。客は掌の中に蝶を透すやうにしてゐた。
「あの晩も蝶が来ましたね、蝶と御縁がありますのね、」
「ああ、さうだね、この間も来たね、しかし、蝶と御縁があつたところで仕方がない、姐さんとでなくつちや、」
「御戯談ばつかり、」
お幸ちやんは娘々した声をして笑つた。
「おい、なんだい、嫌な声をするぢやないか、酒だい、ビールを持つて来い、」
浪花節の若衆が頬杖をしたまま怒鳴つた。お幸ちやんはその声に体を包んでゐた暖な靄が消えたやうな気がした。
「まだ飲むの、そんなに飲んでて、」
「ふざけるない、」
お幸ちやんは笑ひながらまた暖簾をくぐつたが、今度出て来た時には右の手に料理の皿を持ち、左の手に口を切つたビー
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