田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)コップを[#「コップを」はママ]
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 二十歳前後のメリヤスの半シヤツの上に毛糸の胴巻をした若衆がよろよろと立ちあがつて、片手を打ち振るやうにして、
「これから、浪花節をやりまアす、皆さん聞いておくんなさい、」
 そして隣のテーブルへ行つて、其所に置いてあつた白い扇を取つて、テーブルの上をバタバタと敲き出した。そのテーブルには会社員らしい洋服を着た男が、前に腰をかけた二人の連と一緒に酒を飲んでゐた。浪花節の若衆の持つた扇はその会社員の持物であつた。
「おい、おい、君、その扇は、今日買つたばかりだよ、どうかお手やはらかに願ひます、」
 店に据ゑた四個のテーブルにゐた客は、浪花節の若衆の持つた白い扇に眼を集めた。
 浪花節の若衆はありたけの声を張りあげて、夢中になつてゐつてゐるので、会社員の言葉などは耳に入らなかつた。彼は遠慮なしにその扇でテーブルを敲き出した。
「困るな、さう敲かれちや、今日買つたばかりだよ、」
 会社員は自分の連の後に立つてゐたお菊さんと云ふ小肥りのした丸顔の女と顔を見合はして笑つた。その会社員の言葉が浪花節の若衆の耳に切れ切れに入つた。
「そんなことは大丈夫だ、」
 扇はまた続けさまに敲きつけられた。皆の視線は矢張りその扇に集つてゐた。会社員も浪花節の若衆も入口の左側に壁蔀を背にしてゐた。其所は半分から下に樺色をした杉板をそのまま張り、上には白い壁紙を貼つてあつた。その壁紙には料理の名を書いたビラを其所に貼つてあるのが見える。そして会社員の左手は直ぐ奥への入口になつて、二筋の暖簾が垂れてゐた。其所から店の客に出す料理も出ればペンキで塗つた出前用の大きな岡持も出入りするのであつた。
 お幸ちやんと云ふ面長な眼の晴れやかな背のすんなりした若い女が、暖簾へ触る髪を気にしいしい出て来た。燗の出来た正宗の二合罎を片手に持つてゐた。
「芳ちやん、旨いねえ、」
 浪花節の若衆はちつとそれに眼をつけた。
「なに云つてるんだ、楽燕だぞ、」
 店の見付は葭簀を青いペンキで塗つて透壁にし、それに二段の棚をこしらへて酒の罎や花瓶などを並べてあつた。お幸ちやんはその棚と会社員の連の一人との間を擦れ擦れに通つて、その後のテーブルにゐる三人の客の所へ行つた。其所の客は皆若い男で、散髪屋の職人とでも云つた風であつた。客はお幸ちやんを中心にして笑ひ声を立てた。其所には棚に据ゑた煽風機の騒々しい風があつた。
「おい、ソーダ水の代りを持つて来い、」
 入口の左側で三人のテーブルの隣から威張つたやうなものの云ひ方をした。其所には樺色の杉板に背を凭せるやうにして二人の客が話してゐた。一人は髪も頬髭もむしやむしや生えた童顔の太つた男で一人は背のひよろ長い神経質らしい顔をして長い髪の毛を綺麗に撫でつけた若い男であつた。
 浪花節の若衆の前に立つてゐたお菊ちやんが二人の前に来た。童顔の男は麦藁の入つてゐる空になつたコップを[#「コップを」はママ]弾くやうにしてみせた。
「これ、これ、」
「あ、二つ、ね、」
「うん、」
 お菊さんは狭い人の背の間を潜つて暖簾の口へ行つた。
「ソーダ水二ちやう、」
 童顔の男は急に椅子から立つた。
「帰りませう、」
 背のひよろ長い連の男がそれを見て腰をあげた。
「いや、帰るんぢやない、便所だ、便所だ、」
 童顔の男は左の手を出して押し止めるやうにしてから、開けてある硝子戸の端に体を当て当て外へ出た。軒下に垂らした白いカーテンの先には内から射した電燈の光を受けて糸のやうな雨が降つてゐた。
「山田さん、家へお入りなさいよ、人が見るぢやありませんか、」
 内からお菊さんが大きな声をした。
「人が見たつて好いさ、別に違つたことをするんぢやないよ、」
 童顔の男は笑ひながら左隅の軒下へ行つて、五分近くもゐてからのつそりと入つて来た。
「あの杉は、もう見込みがないぜ、俺がこんなにまでしても、芽を出さないのだ、」
 お菊さんは代のソーダ水を持つて来たところであつた。丁度その時、浪花節の若衆がかすれた声を止めて扇を放り出すやうに置いた。もう勘定をすましてゐた会社員はいきなりそれを手にして、連と一緒に笑ひ笑ひ出て行つた。
 浪花節の若衆の前には四五本のビールの罎があつた。彼はまたビールのコップを[#「コップを」はママ]手にしたが、疲れたのか左の肱をテーブルの端にぐつしよりとつけて凭れた。と、小柄な男が蛇の目傘を畳みながら入つて来た。
「いらつしやいまし、」
 会社員の一行を出口まで送つて行つたお幸ちやんがお愛想を云つた。それはその前々夜やつて来た柔和な綺麗な顔をした何所かの若旦那とでも云ふやうな男で、白絣の上に鉄色の絽
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