が来て眼の前に立つてゐた。
「おや、いらつしやいまし、」
 お幸ちやんは立ちあがつてお辞儀をしてから、左側の椅子を勧めやうとした。
「今晩はちよつと散歩に来たが、あんたが一人で退屈してゐるやうだから入つて来た。これから、私の家へ行かうぢやないか、すぐ傍だ、僕の書斎は、主屋と離れてゐて、裏門から入れば誰にも会はないよ、」
 お幸ちやんは矢鱈に一緒に行きたかつた。暖簾の口へ行つてそつと内を見ると、帳場でお菊さんとお神さんとが話してゐた。……もしお客さんが来たなら、お菊さんが出てくれるだらう、帰つて聞かれたら、何所か其所らあたりを歩いてゐたと云つとけば好い、と思つた。
「どうだね、五分か十分なら好いだらう、」
 男はお幸ちやんの顔を見て云つた。
「行つても構はないこと、」
「行かう、誰にも会はないやうに行けば好いだらう、」
 お幸ちやんは返事の代りに笑つて見せた。男はそれを見ると静に外へ出て行つた。お幸ちやんもその後を従いて外へ出た。外には雲の間から青い月の光が滲んでゐた。
「おや、月がありますのね、」
「もう、梅雨もあがるかも判らないのね、」
 男は右の方へと歩いた。お幸ちやんは一緒に並んで行くのが気まりが悪いので、後から一間ばかり離れて行つた。そして歩きながら誰か知つた人に会ひはしないかと思つて注意してゐたが、二人ばかりの者と行き合つたが別に知つた顔でもなかつた。
「さあ、此所からおりるよ、直ぐこの坂の中程だ、」
 小さな坂のおり口があつて左側の角に電燈が一つ点いてゐた。其所には何んとか云ふお屋敷の黒板塀が続いてゐた。綺麗な顔の男はその塀に沿うておりた。その坂は中程から右に折れ曲つてゐた。その右の曲角あたりに生垣の垣根があつた。
「此所だよ、此所から入れば、家の者に会はなくつて好い、」
 小さな黒い門の扉があつた。男が手を持つて行くと扉は音もなく開いた。
「さあ、お入り、」
 男は先へ入つて扉をおさへて身を片寄せてゐた。門の中は明るかつた。お幸ちやんが中へ入ると男は扉を仮に締めた。
「さあ、此方へお出で、すぐ其所だ、」
 青々した緑の木が左右に生えてゐた。男はその間を先に立つて行つた。十間ばかりも行つたところで障子に電燈の射した縁側があつた。
「さあ、おあがり、此所だ、」
 男はづんづんと縁側へあがつて障子を開けた。お幸ちやんもきまりが悪いが度胸をきめて従いてあがつた。
 八畳のあつさりした室の一方は床になつて、草書の大字を書いた軸がかゝり、その前の置き花生けには燕子花のやうな草花がさしてあつた。その床の右並びに黒い小さな机があつて五六冊の本が積んであつた。
 男は机の傍から水色の蒲団を持つて来て室の中程へ置いた。
「お坐り、誰も遠慮する者はない、」
 お幸ちやんはもぢもぢして立つてゐたが坐らないわけに行かないのでその傍へ行つて坐つた。男はその時、机の前にあつた自分の平生敷いてゐるらしい赤い蒲団を取つて来てその前に置いて坐つた。
「蒲団を敷くが好いぢやないか、蒲団を敷いたつて、敷かなかつたつて、座敷料は同じだよ、」
 男は笑つてお幸ちやんの顔を見た。お幸ちやんは口元に手をやつて笑つた。
「さあ、敷くが好いだらう、」
 お幸ちやんはやつと蒲団の上にずりあがるやうにした。
「茶は出さないよ、面倒だから、その代りこんなものがある、」
 男は立つて一方の押し入れの方へ行つた。
「もうなにも宜しうございます、直ぐお暇いたしますから、」
「あんたの家のやうな御馳走ではないが、ちよいと好いもんだよ、花から取つた物だと云ふんだ、」
 男は押し入を開けて三角になつた薄赤い液の入つた罎と、小さなコツプを二つ持つて来て、坐りながらそれを二つのコツプに注いで一つをお幸ちやんの前へと置いた。
「珍しい物だよ、まだ日本には無いよ、」
 男はかう云つてから自分の前にコツプを持つてぐつと一息に飲んだ。
「アルコールも何も入つてゐないから、水を飲むと同じだよ、」
 お幸ちやんはあんなに云つてくれるのを飲まないのも悪いと思つた。
「では戴きます、」
「飲んで御覧、なんでもないよ、」
 お幸ちやんは行儀好くコツプを取つて口に持つて行つた。それは少し甘味のある軟かなほんのりと香のある飲物であつた。
「どうだね、ちよいと好い物だらう、」
「本当に好い匂ですこと、」
 お幸ちやんは半分ばかり飲んでから下に置いた。
「お幸ちやんが、折角遊びに来てくれたんだから、昼だと写真でも取つてあげるが、夜ぢやはつきり写らない、写真は今度にして、今晩は、」
 男はさう云つてちよと考へ込んだ。
「もう、どうぞ、店をそのままにしてありますから、直ぐ失礼します、」
「さうだ、あれが好い、一つ友達から土産に貰つた化粧箱がある、あれをあげよう、」
「もう、どうぞ、何も沢山でございます、」
「好いぢ
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