やないか、人に貰つた物だ、」
 男はまた立つて押し入の方へ行つて、黄色な紙にくるんだ小さな箱のやうな物を持つて来た。
「貰ひ物で失敬だが、構はないなら持つておいで、」
 男はかう云つてそれを女の前へ置いて坐つた。
「そんな物を戴いてはすみません、」
「好いぢやないか、あんたが構はないなら取つて行つたら好いだらう、」
「でもあんまりですわ、」
 不意に縁側に足音が起つて男と女の声がした。お幸ちやんは誰も来るものはないと聞いてゐたのでびつくりして途方に暮れた。
「誰かゐるやうぢやなくて、」
「誰がゐるもんかね、この室には誰も来ないから大丈夫だよ、」
「でも、何だか話をしてゐたやうですわ、」
「そんなことがあるもんか、さあ、お出でよ、」
 同時に障子が開いて年取つた男と若い小間使のやうな白粉をこてこて塗つた女が入つて来た。
「誰もゐないぢやないか、誰がゐるもんかね、」
「でも、蒲団があるぢやなくつて、」
「蒲団はさつき客に出して、そのままになつてゐるんだ、」
 お幸ちやんはどうして好いか判らないのできよときよとして坐つてゐたが、自分達の姿が見えないのか二人は何も云はない。
「お坐りよ、」
 男は女の手を取つて坐らせようとした。
「おや、蛾がゐるんですよ、」
「何所に、」
「お蒲団の上にですよ、」
「さうかね、」
 男は俯向いて蒲団の上を見たが、手にしてゐた葉巻を持ち直してその火口を蒲団の上に持つて行つた。
「可哀想ぢやありませんか、許しておやりなさいよ、おや、羽が焼けましたよ、あんなにして這つてますよ、可哀想に、外へ逃がしてやりませう、」
 女は俯向いて[#「俯向いて」は底本では「低向いて」]何か手に入れながら締めた障子を細目に開けて、手にしてゐた物を外へ投げた。
 お幸ちやんは夢中になつて座敷を走り出た。
「お幸ちやん、お幸ちやん、どうしたの、」
 お幸ちやんは肩をゆり動かされてふと顔をあげた。自分は店のテーブルの上に俯向いて仮寝をしてゐるところを、お菊さんに起されたところであつた。

 お幸ちやんはその晩から熱が出て四五日寝て店に出たが、その日も朝からの雨で、客の来さかる頃になつても、ふりの客は来ずにお馴染の客ばかりがぼつぼつやつて来た。
 もう十時になつてゐた。その客も帰つてしまつて、菓子工場の旦那と云ふづんぐり太つた眼鏡をかけた客が右側の奥のテーブルへ一人残つてゐた。お幸ちやんとお菊さんはその客の相手になつて笑つてゐた。そしてお菊さんがナマの代を取りに行つて出て来たところで一人の客が入つて来た。それは綺麗な顔のお客であつたが、どうしたのかひどく窶れて黄色な顔色をしてゐた。
「おや、いらつしやいまし、」
 お菊さんはかう云つてから、直ぐお幸ちやんの方に注意した。
「お幸ちやん、お客さんよ、」
「た、ア、れ、」
 お幸ちやんは椅子に腰をかけたなりに入口の方を見た。
「おや、いらつしやいまし、」
 お幸ちやんは急いで立つて行つたが、客の黄色な顔色と左の手の手首まで巻いた繃帯を見て眼を見張つた。
「どうかなさいまして、」
「すこし焼傷をしてね、」
「それは、いけませんね、」
 お幸ちやんは暖簾の傍にある外側の椅子を直した。客はそれに腰をかけたが痛さうに顔をしかめた。
「お痛みになりますか、」
「大したことはないがね、どうかすると痛いよ、」
「ひどいお怪我でしたか、」
「大したこともないが、それでもちよいと焼いたよ、」
「それはいけませんね、」
「今日はソーダ水を貰はうか、」
 お幸ちやんはなんだか泣きたいやうな気がした。沈んだ顔をして暖簾を潜つてソーダ水を取つて来て前に置いた。
「有難う、折角お馴染になりかけたが、こんなになつたから、明日からちよつと養生に行かうと思つて、あんたに逢ひに来たところだ、」
 客は淋しく笑つてお幸ちやんの顔を見た。
 お幸ちやんはその顔に強ひて微笑を送つたが、すぐ首を垂れて俯向いてしまつた。
「今晩は、蛾も来ないやうだね、あの蛾もどうなつたんだらう、」
 お幸ちやんはふと夢のことを思ひ出して、客の方をぢつと見た。
 客は俯向いて麦藁の管で力なささうにソーダ水を飲んでゐた。そしてやつと飲んでしまふと、右の袂の中から一円札を出してコツプの傍へ置いた。
「では、失敬する、大事になさいよ、」
「はい、どうぞ、貴君こそお大事に、」
 お幸ちやんの声は震へてゐた。客はそのまま外へと出て行つた。

 翌朝もう十時近くなつて起きたお幸ちやんは、順番で表の硝子戸を開けに行つたが、戸を開けた時に見ると、小雨の降つてゐる軒下の泥溝に渡した板の上に、黄色な一匹の蛾が死んでゐた。変に思つて其所へ行つてよく見ると、それは左の羽が黒く焼けただれてゐるのであつた。



底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
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