かし、それと云って女と別れて往くこともできなかった。
「そうだ、拙者の処へ往っても宜いが……」
「おさしつかえがございましょうか」
「別にさしつかえと云うことはないが」
「ではどうかお救けを願います」
「では往っても宜いが、拙者は独身者だから」と、侍は少し恥らうように云った。
 女もちょっと顔を赧くしたが、その黒い眼には喜びが浮んだ。そして、二人はちょっと黙って立っていた。花は思い出したように散っていた。
 やがて、侍は女を伴《つ》れて坂をおりた。草の茂った谷間の窪地には、小さな谷川が流れて、それにかかっている板橋が見えていた。その橋を越えるとむこうは台地に建てた山屋敷で、その橋の袂では折おり山屋敷に入れられている重罪人が死刑に処せられた。二人はその板橋を右に見て江戸川縁の方へ出て往った。女は後から歩きながら疲れたように可愛らしい呼吸《いき》を切った。
 江戸川縁の住居は真黒《まっくら》であった。侍は女を戸口に立たして置いて、手探りに戸を開けて内へ入り、行灯《あんどん》の灯を点けると女を呼び入れた。そして、二人はその行灯の前に向き合って坐った。
「この御恩は忘れません」
 女は男の顔を
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