て》もないので困っております」
と、女は萎れて云った。
「それはお困りでございましょう、貴方は何方からお出でになりました」
「私は浜松在の者でございますが、一人残っておった母に死なれまして、他に身寄りもございませんから、父の妹になる叔母を尋ねてまいった者でございます」
「それでは、その叔母さんの居処がお判りにならないのですな、それはお気の毒な……」と云って、侍は女の容《すがた》をじっと見た。
女は悲しそうな顔をしながらも、さも、この同情にすがりたいと云うような素振をしていた。女の髪につけた油の匂がほんのりと鼻に染みた。
「……それに、もう夜が更けているし、それは困ったな」
と、侍は考えた。
「女子の一人旅では、こんなに遅くなっては、旅籠《はたご》に往っても泊めてくれませんし、ほんとうに困っております」
「そうだ、どうかしなくてはならんが……」
「どうか簷《のき》の下で宜しゅうございますから、今晩だけお泊めなさってくださいますまいか」と、女はきまり悪そうに云った。
若い侍もそれを考えないではなかったが、独身者の処へ壮い女を伴れて往って泊めると云うことは、どうもうしろめたかった。しかし、それと云って女と別れて往くこともできなかった。
「そうだ、拙者の処へ往っても宜いが……」
「おさしつかえがございましょうか」
「別にさしつかえと云うことはないが」
「ではどうかお救けを願います」
「では往っても宜いが、拙者は独身者だから」と、侍は少し恥らうように云った。
女もちょっと顔を赧くしたが、その黒い眼には喜びが浮んだ。そして、二人はちょっと黙って立っていた。花は思い出したように散っていた。
やがて、侍は女を伴《つ》れて坂をおりた。草の茂った谷間の窪地には、小さな谷川が流れて、それにかかっている板橋が見えていた。その橋を越えるとむこうは台地に建てた山屋敷で、その橋の袂では折おり山屋敷に入れられている重罪人が死刑に処せられた。二人はその板橋を右に見て江戸川縁の方へ出て往った。女は後から歩きながら疲れたように可愛らしい呼吸《いき》を切った。
江戸川縁の住居は真黒《まっくら》であった。侍は女を戸口に立たして置いて、手探りに戸を開けて内へ入り、行灯《あんどん》の灯を点けると女を呼び入れた。そして、二人はその行灯の前に向き合って坐った。
「この御恩は忘れません」
女は男の顔を
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング