かつた。彼は針付けにされたやうに立つてその女の方を見詰めた。
秀夫はふとまだ他に違つた女中がゐて、自分等の様なふりの客の所へは出ずに、金を多く使ふ客の所へ出てゐるかも分らないと思ひ出した。で、も一度月給を貰つた時に行つてみやうと思つた。さう思ひながら彼は淋しさうに歩き出して新京橋を上へと渡つた。
その翌日は夕方から暴風雨になつて一頻り荒れたが十時過ぎになつてばつたり止んだ。秀夫は寝床の中へ這入つてゐたが、天気が静まるとぶらりと戸外へ出て、行くともなしに新京橋の方へ行つた。一度絶へてゐた人通りが又はじまつて、ぼつぼつ人が往来してゐた。
秀夫は橋の上へ行くと牡蠣船の方を見た。牡蠣船は障子を締め切つて若い酔どれの大きな声がしてゐた。
「今晩は、」
若い女の声が傍でした。秀夫は何人か他の人に言つてゐるのだらうと思つたが、それで顔を向けた。と、牡蠣船の綺麗な女が立つてゐた。それは確に見覚のある蝋細工のやうな端麗な顔をした女であつた。
秀夫は黙つたままでその顔を見詰めた。と、女はにつと笑つた。
「琵琶を弾く姉さんを、今晩はもう見に来てくれませんでしたね、」
秀夫は極まりがわるかつた。
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