牡蠣船
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あさ[#「あさ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)あり/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 秀夫は凭れるともなしに新京橋の小さなとろとろする鉄の欄干に凭れて、周囲の電燈の灯の映つた水の上に眼をやつた。重どろんだ水は電燈の灯を大事に抱へて動かなかつた。それは秀夫に取つては淋しい眼に見える物が皆あさ[#「あさ」に傍点]れたやうに思はれる晩であつた。橋の上には沢山の人が往来をしてをり短い橋の左の橋詰の活動写真館からは騒々しい物音が聞ゑ、また右の橋詰の三階になつた牛肉屋からも客の声が騒がしく聞えてゐたが秀夫の心には何の交渉もなかつた。
 秀夫はその町の銀行に勤めてゐた。彼は周囲の友達のやうに華かな世界がなかつた。その晩も下宿で淋しい木屑を喫むやうな夕飯を済ますと机の上の雑誌を取つて覗いてゐたが、なんだかぢつとしてゐられないので活動でも見て帰りに蕎麦でも喫はうと思つて其所の活動写真館へやつて来た。写真は新派の車に乗つてゐる令嬢を悪漢が来て掠奪すると言ふやうな面白くもないものであつた。彼は物足りないのでふらふらと出て来たものの他に行く所もないので橋の欄干へ凭れるともなしに凭れたところであつた。
 秀夫はふと自分と机を並べてゐる友達が其処の活動写真で関係したと言ふ女のことを考へ出した。それは自分の下宿の筋向ふの雑貨店の二階から裁縫学校へ通ふてゐる小柄な色の白い女であつた。友達は活動を見てゐる女とどう言ふやうにして近付きになつたのであらうと考へながらその眼を左の方へとやつた。其処は活動写真の前の河縁でその町の名物の一つになつてゐる牡蠣船の明るい灯があつて、二つになつた艫の右側の室の障子が一枚開いて若い綺麗な女中の一人が此方の方へ横顔を見せて銚子を持つてゐたが、客は此方を背にして障子の蔭に体を置いてゐるので盃を持つた右の手先が見えてゐるのみで姿は見えなかつた。牡蠣船の先には又小さな使者屋橋と云ふ橋が薄らと見えてゐた。
 岸の柳がビロードのやうな若葉を吐いたばかりの枝を一つ牡蠣船の方に垂れてゐたが、その萠黄色の若葉に船の灯が映つて情趣を添へてゐた。秀夫はその柳の枝をちらと見た後に又眼を牡蠣船の方へとやつた。若い綺麗な女中が心持ち赤らんだ顔を此方へ向けてにつと笑つた。それは客と話をして笑つたものであらうが、自分の眼とその眼とがぴつたり合つたやうに思つて、秀夫は極まりがわるいのでちよと牛肉屋の二階の方に眼をやつた。と、彼は五六日前に友達の一人が牡蠣船に行つて、其処の女中から筑前琵琶を聞かされたと言つたことを思ひ出して、俺もこれから行つてみやうかと思つた。しかし彼は一人で料理屋へ行つたことがないので、眼に見えない幕があつてそれが胸先に垂れさがつてゐるやうで、おつくうですぐ行かうと言ふ気にはなれなかつた。
 秀夫はその牡蠣船では牡蠣料理以外に西洋料理も出来ると聞いてゐたので、西洋料理の一皿か二皿かを取つてビールを飲んでも好いと思つた。西洋料理を喫つてビールを飲むことなら友達と数回やつてゐるので彼にも自信があつた。それでポチを五十銭も置けば良いだらうと思つた。彼は欄干を離れて下の方へと歩きかけた。牡蠣船のある方の岸は車の立場になつてゐて柳の下へは車を並べその傍に小さな車夫の溜を設けてあつた。車夫小屋と並んで活動写真の客を当て込んで椎の実などを売つている露店などもあつた。秀夫はその前を通つて使者屋橋の袂にその入口を向けた牡蠣船の前へと行つたが、小さな階段によつて船の中へとおりて行くその入口を正面にすると、足が硬ばつたやうになつて這入れなかつた。
 秀夫は後戻りをして牡蠣船の前から又新京橋の方へと行つてはじめの場所に立つて見た。綺麗な女中は琵琶を持つてゐた。澄んだ鈴のやうな声で歌つてゐるらしかつたが声が小さいので聞ゑなかつた。それでは友達の琵琶を聞かされたと言ふのはあの女であつたかと彼は思つた。
 その内に女は又此方を見た。紅い唇があり/\と見えるやうに思はれた。今晩は仕方がないから明日の晩は夕飯を喫はずに行つてみやうと思つて彼は懐の勘定をした。懐には十円近い小遣があつた。西洋料理を一皿二皿喫つてビールを一本飲む位なら三四円もあれば良いだらう、と、彼は友達と西洋料理に行つた時の割前を考へ出してゐた。
 翌日秀夫は銀行へ行つて課長の眼の無い隙を見て、牡蠣船へ行つたと言ふ友達にそれとなく牡蠣船の勘定などを聞いてゐたが、その夕方下宿へ帰つて来ると湯に入つて夕飯は喫はずに日の暮れるのを待つて出かけた。そして新京橋の上へ来てみると牡蠣船は艫の左側の室の障子が開いて客らしい男の頭が二
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