つばかり見えてゐた。
 秀夫は今晩こそ行くと言ふ彼に取つては一つの決心をしてゐるので、昨夜のやうに胸先に垂れさがつてゐる幕のやうな物の圧迫もなかつた。彼はその足で牡蠣船の階段をおりて狭い電話室の喰付いてゐる入口へと行つた。
「お客さんだよ、」
 左側の料理場らしい所から男の声がすると小柄な女中が出て来たが、あがる拍子にみると左の眼がちよと潤んだやうになつてゐた。秀夫は女中に随いて狭い廊下をちよと行くと、行詰の左側に引立てになつた襖の半開きになつた室があつた。女中は秀夫をその中へと案内した。秀夫は中へ這入つてからその室が向ふから右側に見える昨夜の室だと言ふことをすぐ悟つた。
 其処には足の低い食卓が置いてあつた。秀夫は昨夜客のゐた所は此処であつたなと思ひながら艫を背にして坐つた。その内に女は引返して行つて火鉢を持つて来た。
「なにあがります、牡蠣あがりまつか、」
 来る時に男の頭の見えてゐた隣の室では男と女の笑ふ声がしてゐた。秀夫はあの綺麗な女中は隣にでもゐるだらうかと思ひながら。
「西洋料理は出来ませんか、」
 彼はまご/\してゐて田舎者と笑はれないやうにと、西洋料理へ行つた時に友達の言つた言葉をそのまゝ用ひて料理を二皿とビールを註文すると、女中が出て行つたので、昨夜綺麗な女中の坐つてゐたと思はれる所を見て、此所な女中も矢張り受持ちがあつて、その客の帰らない内は他の座敷へは行かないだらうか、旨くあの女中が来てくれると良いがなどゝ思つてゐると足音がして女中が這入つて来た。それは顔のしやくんだ円髷の女で昨夜見た女中の一人であつた。それはビールとコツプを乗せた盆を持つてゐた。
 秀夫はその女中にビールの酌をして貰ひながら、琵琶を弾いてゐた綺麗な女中のことを訊かうと思つたが、それは極まりがわるくて訊けなかつた。
「すぐお料理が出来ますさかい、……あんた、これから、ちよい/\お出やす、綺麗なお友達連れなはつてな、」
 何処の国の言葉とも判らない、この町のかうした女の用ゐる言葉を使ひながら、初心な客をてれさゝないやうにと話しを仕向けた。秀夫はそれがために気がのび/″\して来たので、
「昨夜、此所で琵琶を弾いてゐた綺麗な姉さんがありましたね、」
 と言ふと女中はにやりとしたがすぐ考へ直したやうに言つた。
「今、来てゐやはりましたやろ、あの人だす、上手でおますやろ、」
「さうですか、あの姉さんですか、」
 秀夫は合点が行かなかつた。今の女中もさう顔立の悪い女ではなかつたがあんな沢のない乾からびたやうな女ではなかつた。
「お待ちどほさま、」
 はじめの女中が二皿の料理を持つてやつて来た。
「この方が、あんたが琵琶を弾いてなはつたところを、見なはりやしたと言ひなはるよ、」
 円髷の女中はにつと笑つた。
「まだ好い女と言うてくれなはつて、」
「さうだす、綺麗な姉さん言いなはりやつたわ、おごりなさい、」
 秀夫もしかたなしに笑つてその女の潤みのある眼をちらと見て、どうもをかしいすこし間を置いて見るとあんなに違つて見えるものかと思つたが、それにしても輪郭の好いみづみづした顔に見えたのは不思議だと思つた。
 秀夫は欺かれたやうな気がして興味もなくなつたので、料理を喫つてしまつて帰つて来たが、どうしても不思議でたまらなかつた。で、翌晩、飯の済んだ後で、又琵琶を弾いてゐた綺麗な女のことを思ひ出して、新京橋の上へとやつて来た。
 牡蠣船は艫の右の障子が開いて綺麗な女中が何時かの所に坐つて琵琶を弾いてゐた。秀夫は欄干に添ふて立つてぢつとその方へ眼をやつた。と、綺麗な女は此方を見て紅い唇を見せてにつと笑つた。彼はそのまゝ牡蠣船へと行つた。
 円髷の女中と小女とが彼の来るのを待つてゐたやうに出て来た。秀夫はその円髷の後から随いて行くと、艫の向ふからは左になつた室へと通された。彼は琵琶の音はしないかと思つて耳を立てたが琵琶は聞えなかつた。彼は女中に西洋料理とビールを註文して、女中が出て行くと起つて行つて境の襖の間を軋ませて、その際から覗いてみた。其所には乾からびたやうな眼に潤みのある女中が銚子を持つてゐた。
「何を覗いてゐやはります、」
「琵琶が鳴つてゐるやうに思つたから、」
 秀夫はさう言ひ言ひ食卓の前に坐つた。
「綺麗な姉さんを覗いてゐやはりましたか、さつきまで弾いてゐやはりましたが、やめました、」
「今、向ふから見ると弾いてゐたやうですが、」
「それはさつきだすやろ、」
「をかしいな、」
 秀夫は時間の距たりが不思議であつたが、それは女中の思ひ違ひであらうと思つた。そして綺麗な女がゐなければ別に飲み食ひはしたくないので一時間ばかりで出て来たが、綺麗な女のことが気になるので新京橋の上に行くと又振り返つて見た。艫の右の室には綺麗な女が姿を見せてゐたが琵琶は持つてゐな
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング