彼は無駄骨を折るのが馬鹿馬鹿しくなったので、湖の中の堤を通って帰ってきた。
 湖心寺という寺が堤に沿うて湖の中にあった。古い大きな寺で眺望が好いので遊覧する者が多かった。喬生もそこでひと休みするつもりで寺の中へ行った。
 もう夕方のせいでもあろう、遊覧の客もいなかった。喬生は腰をおろす処はないかと思って、本堂の東側になった廻廊へあがって行った。朱塗の大きな柱が並木のように並んでいた。彼は東側の廻廊から西側の廻廊へ廻ってみた。その西側の廻廊の行き詰めにうす暗い陰気な室《へや》の入口があった。彼は好奇《ものずき》にその中をのぞいてみた。そこには一個《ひとつ》の棺桶が置いてあったが、その上に紙を貼って太い文字を書いてあった。それは「故奉化符州判女麗卿之柩《こほうかふしゅうはんのじょれいきょうのひつぎ》」と書いたものであった。喬生は眼を瞠《みは》った。棺桶の前には牡丹の花の飾をした牡丹燈が懸けてあった。彼はぶるぶると顫えながら、牡丹燈の下の方へ眼を落した。そこには小さな藁人形が置いてあって、その背の貼紙に「金蓮」と書いてあった。
 喬生は夢中になって逃げ走った。そして、やっと自分の家の門口まで
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