牡丹燈記
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)方国珍《ほうこくちん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)開府|王真人《おうしんじん》の弟子
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)符※[#「竹かんむり/(金+祿のつくり)」、第3水準1−89−79]《かじふだ》
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元の末に方国珍《ほうこくちん》という者が浙東《せつとう》の地に割拠すると、毎年正月十五日の上元の夜から五日間、明州で燈籠を点《つ》けさしたので、城内の者はそれを観て一晩中遊び戯れた。
それは至正庚子《しせいこうし》の歳に当る上元の夜のことであった。家々の簷《のき》に掲げた燈籠に明るい月が射して、その燈は微赤く滲んだようにぼんやりとなって見えた。喬生《きょうせい》も自分の家の門口へ立って、観燈の夜の模様を見ていた。鎮明嶺《ちんめいれい》の下に住んでいるこの若い男は、近頃愛していた女房に死なれたので、気病《きやまい》のようになっているところであった。
風のない暖かな晩であった。観燈の人びとは、面白そうに喋りあったり笑いあったりして、騒ぎながら喬生の前を往来した。その人びとの中には若い女の群もあった。女達は綺麗な燈籠を持っていた。喬生はその燈に映しだされた女の姿や容貌が、自分の女房に似ていでもすると、いきいきとした眼をしたが、すぐ力のない悲しそうな眼になった。
月が傾いて往来の人もとぎれがちになってきた。それでも喬生はぽつねんと立っていた。軽い韈《くつ》の音が耳についた。彼は見るともなしに東の方へ眼をやった。婢《じょちゅう》であろう稚児髷のような髪をした少女に燈籠を持たせて、その後から若い女が歩いてきたが、少女の持っている燈籠の頭には、真紅の色の鮮やかな二つの牡丹《ぼたん》の花の飾がしてあった。彼の眼はその牡丹の花から後ろの女の顔へ行った。女は十七八のしなやかな姿をしていた。彼はうっとりとなっていた。
女は白い歯をちらと見せて喬生の前を通り過ぎた。女は青い上衣を着ていた。喬生は吸い寄せられるようにその後から跟《つ》いて行った。彼の眼の前には女の姿が一ぱいになっていた。彼はすこし歩いたところで、足の遅い女に突きあたりそうになった。で、左斜にそれて女を追い越したが、女と親しみがなくなるような気がするので、足を遅くして女の行き過ぎるのを待って歩いた。と、女は振り返って笑顔を見せた。彼は女と自分との隔てがなくなったように思った。
「燈籠を見にいらしたのですか」
「はい、これを連れて見物に参りましたが、他に知った方はないし、ちっとも面白くないから帰るところでございます」
女は無邪気なおっとりした声で言った。
「私は宵からこうしてぶらぶらしているのですが、なんだか燈籠を見る気がしないのです、どうです、私の家は他に家内がいませんから、遠慮する者がありません、すこし休んでいらしては」
「そう、では、失礼ですが、ちょっと休まして戴きましょうか、くたびれて困ってるところでございますから」
と言って、燈籠を持った少女の方を見返って、
「金蓮《きんれん》、こちらでちょっと休まして戴きますから、お前もおいで」
少女は引返してきた。
「すぐ、その家ですよ」
喬生は自分の家の方へ指をさした。少女は燈籠を持って前《さき》へ立って行った。二人はその後から並んで歩いた。
「ここですよ」
三人は喬生の家の門口へきていた。喬生は扉《と》を開けて二人の女を内へ入れた。
「あなたのお住居は、何方ですか」
喬生は女の素性が知りたかった。女は美しい顔に微かに疲労の色を見せていた。
「私は湖西に住んでいる者でございます、もとは奉化《ほうか》の者で、父は州判でございましたが、その父も、母も亡くなって、家が零落しましたが、他に世話になる、兄弟も親類もないものですから、これと二人で、毎日淋しい日を送っています、私の姓は符《ふ》で、名は淑芳《しゅくほう》、字《あざな》は麗卿《れいきょう》でございます」
喬生はたよりない女の身が気のどくに思われてきた。
「それはお淋しいでしょう、私も、この頃、家内を亡くして、一人ぼっちになっているのですが、同情しますよ」
「奥様を、お亡《なくな》しなさいました、それは御不自由でございましょう」
「家内を持たない時には、そうでもなかったのですが、一度持っていて亡くすると、何だか不自由でしてね」
「そうでございましょうとも」
女はこう言って黒い眼を潤ませて見せた。喬生はその女と二人でしんみりと話がしたくなった。
「彼方へ行こうじゃありませんか」
女はとうとう一泊して天明《よあけ》になって帰って行った。喬生はもう亡
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