くなった女房のことは忘れてしまって夜のくるのを待っていた。夜になると女は少女を連れてきた。軽い小刻みな韈《くつ》の音がすると、喬生はいそいで起って行って扉を開けた。少女の持った真紅の鮮やかな牡丹燈がまず眼に注《つ》いた。
 女は毎晩のように喬生の許《もと》へきて、天明になって帰って行った。喬生の家と壁一つ隣に老人が住んでいた。老人は鰥暮《やもめぐら》しの喬生が夜になると何人《たれ》かと話でもしているような声がするので不審した。
「あいつ寝言を言ってるな」
 しかし、その声は一晩でなしに二晩三晩と続いた。
「寝言にしちゃおかしいぞ、人もくるようにないが、それとも何人か泊りにでもくるだろうか」
 老人はこんなことを言いながらやっとこさと腰をあげ、すこし頽《くず》れて時おり隣の灯の漏れてくる壁の処へ行って顔をぴったりつけて好奇《ものずき》に覗いて見た。喬生が人間の骸骨と抱き合って牀《こしかけ》に腰をかけていたが、その時嬉しそうな声で何か言った。老人は怖れて眼前が暗むような気がした。彼は壁を離れるなり寝床の中へ潜りこんだ。

 翌日になって老人は喬生を自分の家へ呼んだ。
「お前さんは、大変なことをやってるが、知ってやってるかな」
 老人は物におびえるような声で言った。喬生はその意味が判らなかったが、女のことがあるのでその忠告でないかと思ってきまりが悪かった。
「さあ、なんだろう、私には判らないが」
「判らないことがあるものか、お前さんは、大変なことをやってる、気が注《つ》かないことはないだろう」
 女のことにしては老人の顔色や言葉がそれとそぐわなかった。
「なんだね」
「なんだもないものだ、お前さんは、おっかない骸骨と抱きあってるじゃないか」
「骸骨、骸骨って、あれかね」
「笑いごとじゃないよ、お前さん、おっかない骸骨と、何をしようというのだ、お前さんは、邪鬼に魅いられてるのだよ」
 喬生も薄気味悪くなってきた。
「ほんとうかね」
「嘘を言って何になる、わしはお前さんが、毎晩のようにへんなことを言うから、初めは寝言だろうと思ってたが、それでも不思議だから、昨夜、あの壁の破れから覗いて見たのだ、お前さんは、邪鬼に生命を取られようとしてるのだ」
「観燈の晩に知りあって、それから毎晩泊りにきてたが、邪鬼だろうか」
「邪鬼も邪鬼、大変な邪鬼だ」
「奉化の者で、お父さんは州判をしてたと言ったよ、湖西に婢《じょちゅう》と二人で暮してると言うのだ、そうかなあ」
「そうとも、邪鬼だよ、わしがこんなに言っても、ほんとうと思えないなら、湖西へ行って調べてみるがいいじゃないか、きっとそんな者はいないよ」
「そうかなあ、たしかに麗卿と言ってたが、じゃ行って調べてみようか」

 その日喬生は月湖の西縁《にしべり》へ行った。湖西の人家は湖に沿うて彼方此方に点在していた。湖の水は微陽《うすび》の射した空の下に青どろんで見えた。そこには湖の中へ通じた長い堤もあった。堤には太鼓橋になった石橋が処どころに架《かか》って、裸木の柳の枝が寒そうに垂れていた。
 喬生は湖縁を行ったり、堤の上を行ったりして、符姓の家を訊いてまわった。
「このあたりに、符という姓の家はないでしょうか」
「さあ、符、符といいますか、そんな家は聞きませんね」
「若い女と婢の二人暮しだということですが」
「若い女と婢の二人暮し、そんな家はないようですね」
 何人に訊いても同じような返辞であった。そのうちに夕方になって湖の面がねずみがかってきた。喬生はいくら訊いても女の家が判らないので、老人の言葉を信ずるようになってきた。彼は無駄骨を折るのが馬鹿馬鹿しくなったので、湖の中の堤を通って帰ってきた。
 湖心寺という寺が堤に沿うて湖の中にあった。古い大きな寺で眺望が好いので遊覧する者が多かった。喬生もそこでひと休みするつもりで寺の中へ行った。
 もう夕方のせいでもあろう、遊覧の客もいなかった。喬生は腰をおろす処はないかと思って、本堂の東側になった廻廊へあがって行った。朱塗の大きな柱が並木のように並んでいた。彼は東側の廻廊から西側の廻廊へ廻ってみた。その西側の廻廊の行き詰めにうす暗い陰気な室《へや》の入口があった。彼は好奇《ものずき》にその中をのぞいてみた。そこには一個《ひとつ》の棺桶が置いてあったが、その上に紙を貼って太い文字を書いてあった。それは「故奉化符州判女麗卿之柩《こほうかふしゅうはんのじょれいきょうのひつぎ》」と書いたものであった。喬生は眼を瞠《みは》った。棺桶の前には牡丹の花の飾をした牡丹燈が懸けてあった。彼はぶるぶると顫えながら、牡丹燈の下の方へ眼を落した。そこには小さな藁人形が置いてあって、その背の貼紙に「金蓮」と書いてあった。
 喬生は夢中になって逃げ走った。そして、やっと自分の家の門口まで
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