ろと動くので、よく見るとそれは鼠であった。
 荒廃した家の内からは、返事をする者もなければ、出てくる者もいなかった。趙は驚いて家の中を駈け廻ったが、母親の影も愛卿の影も、その他にも人の影という影は見えなかった。
 趙は茫然として中堂の中に立っていた。庭の方で鳥の声がした。それは夕陽の射した庭の樹に一羽の※[#「号+鳥」、第3水準1−94−57]《ふくろう》がきて啼いているところであった。
 淋しい夕暮がきた。趙は母親と愛卿は、楊参政の麾下の掠奪に逢って、どこかへ避難しているだろうと思いだした。彼は翌日知人を訪うて精《くわ》しい容子を聞くことにして、そのあたりを掃除して一夜をそこで明かした。
 朝になって趙は、嘉興の東門となった春波門を出て往った。そこには紅橋があった。趙はその側へ往ったところで見覚えのある老人に往き逢った。
「おい、爺じゃないか」
 それはもと使っていた僕《げなん》であった。
「だ、旦那様じゃございませんか」
 老人は飛びかかってきそうな容《ふう》をして言った。
「ああ、俺だよ」
 趙は一刻も早く母親と愛卿のことが聞きたかった。
「爺や、お前に聞きたいが、家のお母さんと
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