[#ここで字下げ終わり]
 歌の中に啜《すす》り泣きが交って、詞《ことば》をなさないところがあった。趙も涙を流してそれを聞いていた。
 歌の声は消えるように輟《や》んだ。趙は夢の覚めたようにして愛卿の側へ往った。
「おいで、お前にはいろいろ礼も言いたい、よくきてくれた」
 趙の手と愛卿の手はもう絡みあった。二人は室の中へ入った。
「お前はお母さんのお世話をしてくれたうえに、わしのために節を守ってくれて、なんともお礼の言いようがない、わしは、今、更《あらた》めて礼を言うよ」
「賤《いや》しい身分の者を、御面倒を見ていただきました、お母様は私がお見送りいたしましたが、思うことの万分の一もできないで、申しわけがありません、賊に迫られて自殺したのは幾分の御恩報じだと思いましたからであります、お礼をおっしゃられては恥かしゅうございます」
「いや、お礼を言う、それにしても、お前を賊に死なしたのは、残念で残念でたまらない、今、お前は冥界《めいかい》におるから、お母さんのことも判ってるだろうが、お母さんは、今、どうしていらっしゃる」
「お母様は、罪のない体でしたから、もう人間に生れかえっております」
「お前は、何故、いつまでもそうしておる」
「私は、私の貞烈のために、無錫《ぶしゃく》の宋《そう》という家へ、男の子となって生れることになっておりますが、あなたに情縁が重うございますから、一度あなたにお眼にかかるまで、生れ出る月を延ばしております、が、もうお眼にかかりましたから、明日は往って生れます、もしあなたがこれまでの情誼をお忘れにならなければ、一度宋家へ往って、私を御覧になってくださいまし、笑ってその験《しるし》をお眼にかけます」
 趙と愛卿の霊は、手を取りあって寝室へ往って歓会したが、楽しみは生前とすこしも変らなかった。
 鶏の声が聞えた。
「私は、帰らなくてはなりません、これでお別れいたします」
 愛卿の霊は泣きながら榻《ねだい》をおりた。趙も後から送って出た。
 愛卿の霊は階をおりて三足ばかり往ったが、ふと涙に濡れている顔を此方へ見せた。
「これでいよいよお別れいたします、どうかお大事に」
 趙も胸がいっぱいになって言おうと思うことが口に出なかった。
 暁の光がうっすらと見えた。と、愛卿の霊は燈の消えるように見えなくなった。室の方を見ると有明の燈の光が消えかかっていた。


前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング