阿繊
蒲松齢
田中貢太郎訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)奚山《けいざん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|疋《ひき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)騾[#「騾」は底本では「螺」]
−−

 奚山《けいざん》は高密《こうみつ》の人であった。旅に出てあきないをするのが家業で、時どき蒙陰《もういん》県と沂水《ぎすい》県の間を旅行した。ある日その途中で雨にさまたげられて、定宿《じょうやど》へゆきつかないうちに、夜が更《ふ》けてしまった。宿をかしてくれそうな物を売る家の門口をかたっぱしから叩《たた》いてみたが、返事をするものがなかった。しかたなしに廡下《のきした》をうろうろしていると、一軒の家の扉を左右に開けて一人の老人が出て来た。
「お困りのようだな。お入り。」
「有難うございます。」
 山は喜んで老人についてゆき、曳《ひ》いている驢《ろば》を繋《つな》いで室《へや》の中へ入った。室の中には几《つくえ》も腰掛けもなかった。老人はいった。
「わしは、あんたがお困りのようだから、お泊めはしたが、わしの家は食物を売ったり、飲物を沽《う》ったりする所でないから、手すくなでゆきとどかん。ただ婆さんと、年のいかない女《むすめ》があるが、ちょうど眠ったところじゃ。残りの肴はあるが、煮たきに困るので何もできない。かまわなければ、それをあげようか。」
 老人はそういってから入っていった。そして、間もなく足の短い牀《しょうぎ》をもって来て下に置き、山をそれに坐らしたが、また入っていって一つの足の短い几《つくえ》を持って来た。それはいかにも急がしそうにいったりきたりするのであった。そのさまを見ては山もじっとしていられないので、曳《ひ》きとめて休んでもらった。
「どうか、どうか、おかまいくださらんように。どうかお休みください。」
 暫くすると一人の女が出て来て仕度をしてくれた。老人は女の方をちょっと見ていった。
「これが家の阿繊《あせん》だ。起きて来たのか。」
 見ると年は十六、七で、綺麗でほっそりしていて、それで愛嬌があった。山には年のいかない弟があってまだ結婚していないので、こういうのをもらいたいものだと思った。そこで老人の故郷や属籍《ぞくせき》を訊《き》いてみた。老人はいった。
「わしは、士虚《しきょ》という名で、苗字は古《こ》というよ。子も孫も皆若死して、この女だけが遺っておる。ちょうど睡っておったから、そのままにしておったが、婆さんが起したと見える。」
「お婿さんは何という方です。」
「まだ許嫁《いいなずけ》になっておらんよ。」
 山は喜んだ。そのうちに肴がごたごたと並んだが、旅館のこんだてに似ていた。食事が終ってから山はおじぎをしていった。
「旅をしておりますと、どんな方に御厄介になるかも解りません。ほんとうに御世話をかけました。この御恩は決して忘れません、ほんとにあなたのお蔭です。そのうえ、だしぬけに、こんなことを申しましてはすみませんが、私に三郎という弟があります。十七になりますが、書物も読み、商売をさしても、それほど馬鹿ではありません。どうかお嬢さんと縁組をさしていただきたいですが。貧乏人ですけれども。」
 老人は喜んでいった。
「わしもこの家は、借りておる。もしそうなれば、一軒借りて移っていってもいい。そうするなら懸念《けねん》もなくなる道理じゃ。」
 山はすべてそれを承諾した。そこで起って礼をいった。老人も殷勤《いんぎん》に後始末をして出ていった。
 朝になって鶏が鳴いた。老人は起きて来て、山に顔を洗わして食事をさした。山はすっかり仕度して金を出した。
「これはすこしですが、食物代にとってください。」
 老人はどうしてもとらなかった。
「一晩の宿じゃないか、金をもらうわけがない。それに婚礼の約束をした間柄じゃないか。」
 山はそこで一家の者と別れて、一ヵ月あまり旅をして返って来た。そして村から一里あまり離れた所へいったところで、老婆が一人の女を伴《つ》れていくのに逢った。それは喪中であろう、冠《ぼうし》から衣服まで皆白いものを着ていた。そして近くへいってみると、どうもその女が阿繊に似ているように思われた。女もまた頻《しき》りにこちらを見ていたが、やがて老婆の袂《たもと》をつかまえて、その耳の傍《そば》へ口を持っていって囁《ささや》いた。老婆は足を停《と》めて山に向っていった。
「あんたは奚《けい》さんではありませんか。」
 山はいった。
「そうですよ。」
 老婆は悲しそうな顔をしていった。
「お爺さんは、崩れかかった牆《かき》に圧しつぶされて死んじゃったよ。今、ちょうど墓詣りにいくところだ。家にはだれもいないから、ちょっと路ばたで待っててください
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング