けは壁になつて其所には髪の白い西洋人の半身像の額が懸つてゐた。それは夫の書籍にあつたトルストイと云ふ男の顔に似てゐた。
「トルストイだらうか、」
京子が斯う思つて顔をあげた時赤ん坊の泣声がした。
「おや、此所には赤ん坊があるよ、」
彼は赤ん坊が見たくなつてきた。彼は右側の障子を開けた。其所は茶の間になつて向ふの障子の先は縁側になつてゐた。彼はその縁側を伝つて行つた。赤ん坊の泣声は次の室からであつた。彼はその障子を開けた。二つの床があつて夫婦が枕を此方にして寝てゐた。若い女優髷にした細君は派手なメリンスの巻蒲団に包んだ赤ん坊に乳をあてがつて睡つてゐた。
京子は細君の枕頭にしやがむやうにして赤ん坊を覗き込んだ。丸顔の細君の顔がふと此方を向いた。細君は悪魔でも見たやうに震ひ声を立てた。
「どなたです、どなたです、なにしに来たんです、」
京子は騒がなかつた。
「奥様、騒がなくつても好んですよ、私は赤ん坊を見に来たのですから、」
細君は口をもぐもぐしてやつと彼女の顔を見直した。
「あなたはどなたです、斯うして寝てをる所へ、何しに来たんです、何しに来たんです、」
「私は赤ん坊を見に来たんですよ、」
「赤ん坊を見に来たんですつて、誰にことわつて、寝てゐる所へ這入つて来たんです、失礼ぢやありませんか、早く出て行つて下さい、」
と云つて赤ん坊の泣くのも構はずに後ろを向いて、
「早く起きて下さい、大変です、大変です、」
男が吃驚して跳び起きた。京子もその音に吃驚した。そして彼の気は遠くなつた。
京子は朝飯の給仕をしてゐた。日比谷にある中学校へ行つてゐる夫は背広の間服を着て胡坐をかいてゐた。夫が好きで毎朝の味噌汁に入れることになつてゐるわかめ[#「わかめ」に傍点]の香がほんのりとしてゐた。京子はそれが鼻に泌み込むやうに思つて仕方がなかつた。どうした連想であつたのか彼はふと海岸の家のことを思ひ出した。
「昨夜、面白いことがあつたんですよ、」
「どうした、」
夫は軽い好奇心を動かしたやうであつた。
「昨夜海岸の砂丘をおりて行くと、ちひさな川があつて、それに板橋が架つてゐるんですよ、その橋を渡ると、向ふに小石を敷いた広い通りがあつて、その通りに沿うて二三軒の家があるぢやありませんか、私はくたびれたから、ちよつと休まうと思つて、船板の門をした家へづんづん這入つて行くと、玄関が
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