がらねばならんし、夫を傍へ来て貰はうとすれば手を鳴らして女中を呼ばねばならなかつた。彼にはそれもこれも憶劫で仕方がなかつた。
 京子は右枕に寝返りした。新しい冷たさが手足に心好かつた。彼は一昨年の春に流産をして以来何処といつて定まつた所はないが、始終頭痛がしたり軽い眩暈を感じたり、その上体がだるくて熱ざした。一年ばかり無くなつてゐた月の物も、昨年からあるにはありだしたが、平生も不順勝で時とすると妊娠でないかと思はれるやうなこともあつた。その日も二三日前からだらけてゐた体が、前晩あたりからえらい熱病にでも罹つたやうに、熱ざしてほてるのでかかり付けの医師に行つて来たところであつた。
「嘔気を覚えるやうなことはありませんか、」
 医師は妊娠の下地ではないかと疑をおいたらしかつた。月の五六日にあるべき筈の月の物がその時も十日ほど延びてゐた。
 勝手の方で瀬戸物を落したやうな音がした。女中が又何かそさうをしたのであらうと思つた。指の先が棒のやうな感じのする赤黒い静脈の蚯蚓のやうに浮あがつた女中の手が其所にあつた。風かそれとも、遠くの方を行く汽車の音とでも云ふやうな、平生も耳に這入つて来る雑音が聞えて来た暗いもやもやした憂鬱がこの雑音に絡らみついてしまつた。彼はだるい体の向を又変へた。
 心好い濁のない風が吹いた。と、青い松の葉の一つづつがその風に動いた。その松の葉へは月が射してゐた。黒い松の幹が飛び飛びに見えた。足許にはメリケン粉のやうに白い踏んでも音のしない砂があつた。時々波の音が思ひだしたやうにざあざあと聞えた。京子は無心になつて何も考へないで足の向く儘に歩いて行つた。
 ちひさな砂丘をだらだらとおりると、ちひさな川が流れてゐて板橋が渡してあつた。橋の向ふにはぼんやり月の光の射した松林の丘があつて、其所には二三軒の別荘風の家が見えてゐた。そろそろと板橋を渡つた京子は、疲びれて休みたくなつたので、とつ着きの家の方へと行つた。家の前には真砂を敷いたかなり広い路が通じてゐた。彼はその路を横切つて門口へと行つた。門の左右には竹の菱垣をして、船板で拵へた門の扉を閉めてあつた。
 門の扉は京子を遮らなかつた。彼は自分の家へでも這入つて行くやうに這入つてしまつた。閉めてあつた玄関の戸も彼女を拒まなかつた。中には四畳半位の玄関の室があつた。彼は其所へ疲びれた足を投げ出して坐つた。室の見付
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