あつて、それが四畳半位でしたよ。其所で両足を投げ出して休みながら見ますと、壁に西洋人の額が懸つてをるぢやありませんか、それが、何時かあなたに見せて戴いた、トルストイですかね、偉い露西亜の小説家の肖像ですよ、」
「何んだ、それは夢か、」
 夫は飯を貰ひながら笑つた。
「それがどうも夢のやうぢや無いんですよ。松の木の色も、葉の色も、波の音も、家の様も、なんでもかでも、ちやんと分つてゐるんですよ、」
「それが夢さ、宵に海岸の話をしてゐたから夢に見んだらう、」
「でも夢ぢやないやうよ、それで玄関で休んでゐると、赤ん坊の泣声がするぢやありませんか、私は赤ん坊が見たくなつたので、右の方から這入つて見ると、茶の間があつて、その先に縁側がありますから、縁側に出て見ると、赤ん坊は直ぐ次の室に寝てゐるやうですから、其所へ這入つて見ると、御夫婦が寝てゐて、奥様は円顔の女優髷にした、それはきつさうな方ですよ、私が赤ん坊を覗いてゐると、眼を覚まして、どなた、何しに来たのだつて怒るんですよ、私は平気で、赤ん坊を見に来たと云つてやると、その奥様が怒つちやつて、大声で旦那を起したもんだから、旦那が寝ぼけて跳び起きたんですよ、私もそれにびつくらした拍子に、何が何やら分らなくなつたんですが、その時が夢の覚めた時でせうよ、」
「だから夢と云つてるぢやないか、夢さ、海岸のことが頭にあつたから、そんな夢を見たんだよ、矢張り体のせいだ、来月は行こう、翻訳の方もその時分に出来上るから、一ヶ月位はゆつくり行つて遊んで来よう、其所で仕事をすれば好い、」
 夫は飯の後で茶を飲みながら海岸行の話をしてから出て行つた。京子はその後で飯も食はずにちやぶ台に片肱を突いたなりで考へ込んでゐた。

 二人の学生が話しながら通つて行つた。その学生の下駄の音が敷いてある通りの真砂にことことと当つた。小川の上には靄がきれぎれに浮んでゐた。京子は板橋を渡つてしまふと彼の家へと行つた。船板の門の扉も玄関の戸も這入つて行く彼の体を支へなかつた。玄関へあがると昨夜の肖像があるだらうかと思つて眼をやつた。肖像は依然として懸つてゐた。
「今晩こそ意地でも、あの赤ん坊を抱いてやらう、」
 京子は又昨夜のやうに茶の間へ通り、茶の間から又縁側へと出て夫婦の寝てゐる室へと行つた。細君は巻蒲団に包んだ赤ん坊を側へ置いて、その方に顔を向けて睡つてゐた。赤ん坊
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