思はないのは之《これ》がためである。甲田は煙管の掃除をし乍ら、生徒控所の彼方《むかう》の一学年の教室から聞えて来るオルガンの音を聞いて居た。バスの音《おん》とソプラノの音とが、着かず離れずに縺《もつ》れ合つて、高くなつたり低くなりして漂ふ間を、福富の肉声が、浮いたり沈んだりして泳いでゐる。別に好い声ではないが、円みのある、落着いた温かい声である。『――主《しゆ》ウのー手エにーすーがーれエるー、身イはー安《やす》ウけエしー』と歌つてゐる。甲田は、また遣つてるなと思つた。
 福富はクリスチヤンである。よく讃美歌を歌ふ女である。甲田は、何方かと言へば、クリスチヤンは嫌ひである。宗教上の信仰だの、社会主義だのと聞くと、そんなものは無くても可《い》いやうに思つてゐる。そして福富の事は、讃美歌が好きでクリスチヤンになつたのだらうと思つてゐる。或時女教師は、どんなに淋しくて不安心なやうな時でも、聖書を読めば自然と心持が落着いて来て、日の照るのも雨の降るのも、敬虔な情を以て神に感謝したくなると言つた。甲田は、それは貴方が独身でゐる故《せゐ》だと批評した。そして余程|穿《うが》つた事を言つたと思つた。す
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