葉書
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)老爺《おやぢ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五円|宛《づつ》

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 ××村の小学校では、小使の老爺《おやぢ》に煮炊《にたき》をさして校長の田辺が常宿直《じやうしゆくちよく》をしてゐた。その代り職員室で用《つか》ふ茶代と新聞代は宿直料の中から出すことにしてある。宿直料は一晩八銭である。茶は一斤半として九十銭、新聞は郵税を入れて五十銭、それを差引いた残余の一円と外に炭、石油も学校のを勝手に用《つか》ひ、家賃は出さぬと来てるから、校長はどうしても月に五円|宛《づつ》得をしてゐる。此木田《このきだ》老訓導は胸の中で斯《か》う勘定してゐる。その所為《せゐ》でもあるまいが、校長に何か宿直の出来ぬ事故のある日には、此木田訓導に屹度《きつと》差支へがある。代理の役は何時でも代用教員の甲田に転んだ。も一人の福富といふのは女教員だから自然と宿直を免れてゐるのである。
 その日も、校長が欠席児童の督促に出掛けると言ひ出すと、此木田は家《うち》の春蚕《はるご》が今朝から上蔟《じやうぞく》しかけてゐると言つて、さつさと帰り仕度をした。校長も、年長《としうへ》の生徒に案内をさせる為に待たしてあるといふので、急いで靴を磨いて出懸けた。出懸ける時に甲田の卓《つくゑ》の前へ来て、
『それでは一寸行つて来ますから、何卒《どうぞ》また。』と言つた。
『は。御緩《ごゆつく》り。』
『今日は此木田さんに宿直して貰ふ積りでゐたら、さつさと帰つて了はれたものですから。』校長は目尻に皺を寄せて、気の毒さうに笑ひ乍ら斯う言つた。そして、冬服の上着のホツクを叮嚀《ていねい》に脱《はづ》して、山樺の枝を手頃に切つた杖を持つて外に出た。六月末の或日の午後である。
 校長の門まで出て行く後姿が職員室の窓の一つから見られた。色の変つた独逸《ドイツ》帽を大事さうに頭に載せた格好は何時《いつ》見ても可笑《をか》しい。そして、何時でも脚気患者《かつけやみ》のやうに足を引擦つて歩く。甲田は何がなしに気の毒な人だと思つた。そして直ぐ可笑しくなつた。やかまし屋の郡視学が巡《まは》つて来て散々小言を言つて行つたのは、つい昨日のことである。視学はその
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