取扱つてゐた。そして、慷慨《かうがい》に堪へないやうな顔をして口を噤《つぐ》んだ。太い左の眉がぴりぴり動いてゐた。これは彼にとつては珍らしい事であつた。甲田は何かの拍子で人と争はねばならぬ事が起つても、直ぐ、一心になるのが莫迦臭《ばかくさ》いやうな気がして、笑はなくても可い時に笑つたり、不意に自分の論理を抛出《なげだ》して対手《あひて》を笑はせたりする。滅多に熱心になることがない。そして、十に一つ我知らず熱心になると、太い眉をぴりぴりさせる。福富も何時かしら甲田の調子に呑まれて了つて、真面目な顔をして聞いてゐたが、聞いて了つてから、
『ほんとにさうですねえ。莫迦正直に督促して歩いたりするより、その方が余程|楽《らく》ですものねえ。』と言つた。それから間もなくその月の月末報告を作るべき日が来た。甲田と福富とは帰りに一緒に玄関から出た。甲田は『何《ど》うです、秘伝を遣りましたか?』と訊いた。女教師は擽《くす》ぐられたやうに笑ひ乍ら、
『いいえ。』と言つた。
『何故遣らないんです?』甲田は、当然するべき事をしなかつたのを責めるやうな声を出した。すると福富は、今月の自分の組の歩合は六十二コンマの四四四である。先月よりは二コンマの少しだけ多い。段々|野良《のら》の仕事が急《いそ》がしくなつて欠席の多くなるべき月に、これ以上歩合を上せては、郡視学に疑はれる惧《おそ》れがある。尤《もつと》も、今後若し六十以下に下るやうな事があつたら、仕方がないから私も屹度その秘伝を遣るつもりだと弁解した。甲田は、女といふものは実に気の小さいものだと思つた。すると福富は又媚びるやうな目付をして斯う言つた。
『ほんとはそれ許りぢやありませんの。若しか先生が、私に彼様《ああ》言つて置き乍ら、御自分はお遣りにならないのですと、私許り詰りませんもの。』
甲田は、あははと笑つた。そして心では、対手《あひて》に横を向いて嗤《わら》はれたやうな侮辱を感じた。「畜生! 矢つ張り年を老《と》つてる哩《わい》!」と思つた。福富は甲田より一つ上の二十三である。――これは二月も前の話である。
甲田は何時《いつ》しか、考へるともなく福富の事を考へてゐた。考へると言つたとて、別に大した事ではない。福富は若い女の癖に、割合に理智の力を有つてゐる。相応に物事を判断してもゐれば、その行ふ事、言ふ事に時々利害の観念が閃めく。師範
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