を起すことがある。さういふ時の對手は屹度福富である。肩の辷り、腰の周りなどのふつくらした肉附を想ひ浮べ乍ら、幻の中の福富に對して限りなき侮辱を與へる。然しそれは其時だけの事である。毎日學校で逢つてると、平氣である。唯何となく二人の間に解決のつかぬ問題があるやうに思ふ事のあるだけである。そして此問題は、二人|限《きり》の問題ではなくて、『男』といふものと『女』といふものとの間の問題であるやうに思つてゐる。時偶《ときたま》母が嫁の話を持ち出すと、甲田は此世の何處かに『思出の記』の敏子のやうな女が居さうに思ふ。福富といふ女と結婚の問題とは全く別である。福富は角ばつた顏をした、色の淺黒い女である。
福富は、毎日授業が濟んでから、三十分か一時間オルガンを彈《ひ》く。さうしてから、明日の教案を立てたり、その日の出席簿を整理したりして歸つて行く。福富は何時の日でも、人より遲く歸るのである。甲田は時々田邊校長から留守居を頼まれて不服に思はないのは之が爲めである。甲田は煙管《きせる》の掃除をし乍ら、生徒控所の彼方《むかう》の一學年の教室から聞えて來るオルガンの音を聞いて居た。バスの音とソプラノの音とが、即《つ》かず離《はな》れずに縺れ合つて、高くなつたり低くなつたりして漂ふ間を、福富の肉聲が、浮いたり沈んだりして泳いでゐる。別に好い聲ではないが、圓みのある落着いた温かい聲である。『――主ウの――手エにーすーがーれエるー、身イはー安《やす》ウけエーしー』と歌つてゐる。甲田は、また遣つてるなと思つた。 福富はクリスチャンである。よく讃美歌を歌ふ女である。甲田は何方《どつち》かと言へば、クリスチャンは嫌ひである。宗教上の信仰だの、社會主義だのと聞くと、そんなものは無くても可いやうに思つてゐる。そして福富の事は、讃美歌が好きでクリスチャンになつたのだらうと思つてゐる。或る時女教師は、どんなに淋しくて不安さうな時でも、聖書を讀めば自然と心持が落着いて來て、日の照るのも雨の降るのも、敬虔な情を以て神に感謝したくなると言つた。甲田は、それは貴方が獨身でゐる故だと批評した。そして餘程|穿《うが》つた事を言つたと思つた。すると福富は、眞面目な顏をして、貴方だつて何時か、屹度神樣に縋らなければならない時が來ますと言つた。甲田は、そんな風な姉ぶつた言振《いひぶり》をするのを好まなかつた。
少し經《た》つとオルガンの音が止んだ。もう止めて來ても可い位だと思ふと、ブウと太い騷がしい音がした。空氣を抜いたのである。そしてオルガンに蓋《ふた》をする音が聞えた。
愈々やつて來るなと思つてると、誰やら玄關に人が來たやうな樣子である。『御免なさい。』と言つてゐる。全《まる》で聞いたことのない聲である。出て見ると、背の低い若い男が立つてゐた。そして、
『貴方は此處の先生ですか?』と言つた。
『さうです。』
『一寸休まして呉れませんか? 僕は非常に疲れてゐるんです。』
甲田は返事をする前に、その男を頭から足の爪先まで見た。髮は一寸五分許りに延びてゐる。痩犬のやうな顏をして居る。片方の眼が小さい。風呂敷包みを首にかけてゐる。そして、垢と埃で臺なしになつた、荒い紺飛白の袷の尻を高々と端折つて、帶の代りに牛の皮の胴締《どうじめ》をしてゐる。その下には、白い小倉服の太目《ふとめ》のズボンを穿いて、ダブ/\したズボンの下から、草鞋を穿いた素足が出てゐる。誠に見すぼらしい恰好である。年は二十歳位で、背丈は五尺に充たない。袷の袖で狹い額に滲んだ膩汗《あぶらあせ》を拭いた。
『たゞ休むだけですか!』と甲田は訊いた。
『さうです、休むだけでも可いんです。今日はもう十里も歩いたから、すつかり疲れて居るんです。』
甲田は一寸|四邊《あたり》を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]してから、
『裏の方へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りなさい。』と言つた。
小使室へ行つて見ると、近所の子供が二三人集つて、石盤に何か書いて遊んでゐた。大きい爐が切つてあつて、その縁に腰掛が置いてある。間もなくその男が入つて來て、一寸會釋をして、草鞋を脱がうとする。
『土足の儘でも可いんです。』
『さうですか、然し草鞋を脱がないと、休んだやうな氣がしません。』
斯う言つて、その男は憐みを乞ふやうな目附をした。すると甲田は、
『其處に盥があります。水もあります。』と言つた。その時、廣い控所を横ぎつて職員室に來る福富の足音が聞えた。子供等は怪訝《けげん》な顏をして、甲田とその男とを見てゐた。
若い男は、草鞋を脱いで上つて、腰掛に腰を掛けた。甲田も、此儘|放《はう》つて置く譯にもいかぬと思つたから、向ひ合つて腰を掛けた。
『君は此學校の先生ですか?』と男は先刻訊いたと同じ事を言つた。但《たゞ》、『貴方《あんた》』と言つたのが、『君』に變つてゐた。
『さうです。』と答へて、甲田は對手の無遠慮な物言ひを不愉快に思つた。そして、自分がこんな田舍で代用教員などをしてるのを恥づる心が起つた。同樣に、煙草が無くて手の遣り場に困る事に氣が附いた。
『あ、煙草を忘れて來た。』と獨言《ひとりごと》をした。そして立つて職員室に來てみると、福富は、
『誰か來たんですか?』と低聲に訊いた。
『乞食です。』
『乞食がどうしたんです?』
『一寸休まして呉れと言ふんです。』
福富は腑に落ちない顏をして甲田を見た。此學校では平常《ふだん》乞食などは餘り寄せつけない事にしてあるのである。甲田は、煙草入と煙管を持つて、また小使室に來た。そして今度は此方から訊いた。
『何處から來たんですか?』
『××からです。』と北方四十里許りにある繁華な町の名を答へた。
そして、俄かに思ひ出したやうに、
『初めて乞食をして歩いてみると、却々《なか/\》辛いものですなア。』と言つた。
甲田は先刻《さつき》から白い小倉のズボンに目を附けて、若しや窮迫した學生などではあるまいかと疑つて居た。何だか此男と話して見たいやうな氣持もあつた。が又、話さなくても可いやうにも思つて居た。すると男は、一刻も早く自分が普通の乞食でないのを明《あきら》かにしようとするやうに、
『僕は××の中學の三年級です。今|郷里《くに》へ歸るところなんです。金がないから乞食をして歸るつもりなんです。郷里は水戸です――水戸から七里許りあるところです。』
と言つた。
甲田は、此男は嘘を言つてるのではないと思うた。ただ、水戸のものが××の中學に入つてるのは隨分方角違ひだと思つた。それを聞くのも面倒臭いと思つた。そして斯う言つた。
『何故歸るんです?』
『父《おやぢ》が死んだんです。』學生は眞面目な顏をした。『僕は今迄自活して苦學をして來たんですがねえ。』
甲田は、自分も父が死んだ爲めに、東京から歸つて來た事を思ひ出した。
『何時死んだんです?』
『一月許り前ださうです。僕は去年××へ來てから、郷里《くに》へ居所《ゐどころ》を知らせて置かなかつたんです。まさか今頃|父《おやぢ》が死なうとは思ひませんでしたからねえ。だもんだから、東京の方を方々聞合して、此間《こないだ》やう/\手紙を寄越したんです。僕が歸らなければ母も死ぬんです。これから歸つて、母を養はなければならないんです。學校はもう止めです。』
斯う言つて小さい方の左の目を一層小さくして、堅く口を結んだ。學業を中途に止めるのを如何にも殘念に思つてる樣子である。甲田は又此男は嘘を言つてるのではないなと思つた。
『東京にもゐたんですか?』と訊いて見た。
『ゐたんです。K――中學にゐたんです。ところがK――中學は去年閉校したんです。君は知りませんか? 新聞にも出た筈ですよ。』
『さうでしたかねえ。』
『さうですよ。そらア君、あん時の騷ぎつてなかつたねえ。』
『そんなに騷いだんですか?』
『騷ぎましたよ。僕等は學校が無くなつたんだもの。』
そして、色々其時の事を面白さうに話した。然し甲田は別に面白くも思はなかつた。たゞ、東京の學校の騷ぎをこんな處で聞くのが不思議に思はれた。學生は終ひに、K――中學で教頭をしてゐて、自分に目を掛けてくれた某といふ先生が、××中學の校長になつてゐたから、その人を手頼つて××に來た。K――で三年級だつたが、××中學ではその時三年に缺員が無くて二年に入れられた。××でも矢張り新聞配達をしてゐたと話した。
甲田は不圖思ひ出した事があつた。そして訊いてみた。『中學に、與田《よだ》といふ先生がゐませんか?』
『與田? ゐます、ゐます。數學の教師でせう? 彼奴ア隨分點が辛《から》いですな。君はどうして知つてるんです?』
『先《せん》に○○の中學にゐたんです。そして××へ追拂はれたんです。僕等がストライキを遣つて』
『あ、それぢや君も中學出ですか? 師範じゃないんですね。』
甲田は此時また、此學生の無遠慮な友達扱ひを不愉快に感じた。甲田は二年前に○○の中學を卒業して、高等學校に入る積りで東京に出たが、入學試験がも少しで始まるといふ時に、父が急病で死んで歸つて來た。それから色々母と爭つたり、ひとり悶えても見たが、どうしても東京に出ることを許されぬ。面白くないから、毎日馬に乘つて遊んでゐるうちに、自分の一生なんか何《ど》うでも可《い》いやうに思つて來た。そのうちに村の學校に缺員が出來ると、縁つゞきの村長が母と一緒になつて勸めるので、當分のうちといふ條件で代用教員になつた。時々、自分は何か一足飛びな事を仕出かさねばならぬやうに焦々《いら/\》するが、何をして可いか目的《めあて》がない。さういふ時は、世の中は不平で不平で耐らない。それが濟むと、何もかも莫迦臭くなる。去年の秋の末に、福富が轉任して來てからは、餘り煩悶もしないやうになつた。
學生は、甲田が中學出と聞いて、グッと心易くなつた樣子である。そして、
『君、濟まないがその煙草を一服|喫《の》ましてくれ給へ。僕は昨日から喫《の》まないんだから。』と言つた。
學生は、甲田の渡した煙管《きせる》を受取つて、うまさうに何服も喫んだ。甲田は默つてそれを見てゐて、もう此學生と話してるのが嫌になつた。斯うしてるうちに福富が歸つて了ふかも知れぬと思つた。すると學生は、
『僕も今日のうちに○○市まで行く積りなんだが、行けるだらうかねえ、君』と言つた。
『行けない事もないでせう。』と、甲田はそつけなく言つた。學生はその顏を見てゐた。『何里あります?』
『五里。』
『まだそんなにあるかなア。』と言つて、學生は嘆息した。そして又、急がしさうに煙草を喫《の》んだ。甲田は默つてゐた。
稍あつて學生は決心したやうに首をあげて、『君、誠に濟まないが、いくらか僕に金を貸してくれませんか? 郷里へ着いたら、何とかして是非返します、僕は今一圓だけ持つてるんだけれど、これは郷里へ着くまで成るべく使はないようにして行かうと思ふんです。さうしないと不安心だからねえ。いくらでも可いんです。屹度返します、僕は君、今日迄三晩共|社《やしろ》に泊つて來たんです。木賃宿に泊つてもいくらか費るからねえ。』と言つた。
甲田は、社《やしろ》に泊るといふことに好奇心を動かした。然しそれよりも、金さへ呉れゝば此奴が歸ると思ふと、うれしいやうな氣がした。そして職員室に行つてみると、福富はまだ歸らずにゐた。甲田は明日持つて來て返すから金を少し貸して呉れと言つた。女教師は、『少ししか持つてきませんよ。』と言ひ乍ら、橄欖《おりいぶ》色のレース糸で編んだ金入を帶の間から出して、卓の上に逆さまにした。一圓紙幣が二枚と五十錢銀貨一枚と、外は少し許り細かいのがあつた。福富は、
『呉れてやるんですか?』と問うた。
甲田はたゞ『えゝ』と言つた。そして、五十錢の銀貨をつまみ上げて、
『これだけ拜借します。あれは學生なんです。』
そして小使室に來ると、學生はまだ煙草を喫《の》んでゐた。
屹度爲替で返すといふことを繰返して言つた、學生はその金を請けた。そして甲田の名を聞いた。甲田は、『返して貰はなくても可い。』と言つ
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