濟むと、何もかも莫迦臭くなる。去年の秋の末に、福富が轉任して來てからは、餘り煩悶もしないやうになつた。
學生は、甲田が中學出と聞いて、グッと心易くなつた樣子である。そして、
『君、濟まないがその煙草を一服|喫《の》ましてくれ給へ。僕は昨日から喫《の》まないんだから。』と言つた。
學生は、甲田の渡した煙管《きせる》を受取つて、うまさうに何服も喫んだ。甲田は默つてそれを見てゐて、もう此學生と話してるのが嫌になつた。斯うしてるうちに福富が歸つて了ふかも知れぬと思つた。すると學生は、
『僕も今日のうちに○○市まで行く積りなんだが、行けるだらうかねえ、君』と言つた。
『行けない事もないでせう。』と、甲田はそつけなく言つた。學生はその顏を見てゐた。『何里あります?』
『五里。』
『まだそんなにあるかなア。』と言つて、學生は嘆息した。そして又、急がしさうに煙草を喫《の》んだ。甲田は默つてゐた。
稍あつて學生は決心したやうに首をあげて、『君、誠に濟まないが、いくらか僕に金を貸してくれませんか? 郷里へ着いたら、何とかして是非返します、僕は今一圓だけ持つてるんだけれど、これは郷里へ着くまで成るべく使はないようにして行かうと思ふんです。さうしないと不安心だからねえ。いくらでも可いんです。屹度返します、僕は君、今日迄三晩共|社《やしろ》に泊つて來たんです。木賃宿に泊つてもいくらか費るからねえ。』と言つた。
甲田は、社《やしろ》に泊るといふことに好奇心を動かした。然しそれよりも、金さへ呉れゝば此奴が歸ると思ふと、うれしいやうな氣がした。そして職員室に行つてみると、福富はまだ歸らずにゐた。甲田は明日持つて來て返すから金を少し貸して呉れと言つた。女教師は、『少ししか持つてきませんよ。』と言ひ乍ら、橄欖《おりいぶ》色のレース糸で編んだ金入を帶の間から出して、卓の上に逆さまにした。一圓紙幣が二枚と五十錢銀貨一枚と、外は少し許り細かいのがあつた。福富は、
『呉れてやるんですか?』と問うた。
甲田はたゞ『えゝ』と言つた。そして、五十錢の銀貨をつまみ上げて、
『これだけ拜借します。あれは學生なんです。』
そして小使室に來ると、學生はまだ煙草を喫《の》んでゐた。
屹度爲替で返すといふことを繰返して言つた、學生はその金を請けた。そして甲田の名を聞いた。甲田は、『返して貰はなくても可い。』と言つ
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