た。然し學生は諾《き》かなかつた。風呂敷包みから手帳を出して、是非教へて呉れと言つた。萬一金を返すことが出來ないにしろ、自分の恩を受けた人の名も知らずにゐるのは、自分の性質として心苦しいと言つた。甲田は矢張り、『そんな事は何《ど》うでも可いぢやありませんか。』と言つた。學生は先刻《さつき》から其處にゐて二人の顏を代る代る見てゐた子供に、この先生は何といふ先生だと訊いた。甲田は可笑しくなつた。又、面倒臭くも思つた。そして自分の名を教へた。
 間もなく學生は、禮を言つて出て行つた。出る時、○○市までの道路を詳しく聞いた。今夜は是非○○市に泊ると言つた。時計は何時だらうと聞いた。三時二十二分であつた。出て行く後姿を福富も職員室の窓から見た。そして、後で甲田の話を聞いて、『氣の毒な人ですねえ。』と言つた。
 ところが、翌朝甲田が出勤の途中、福富が後から急ぎ足で追ついて來て、
『先生、あの、昨日の乞食ですね、私は今朝逢ひましたよ。』と言つた。何か得意な話でもする調子であつた。甲田は、そんな筈はないというやうな顏をして、
『何處《どこ》で?』と言つた。
 福富の話はかうであつた。福富の泊つてゐる家の前に、この村で唯一軒の木賃宿がある。今朝早く、福富がいつものやうに散歩して歸つて來て、家の前に立つてゐると、昨日の男がその木賃宿から出て南の方――○○市の方――へ行つた。間もなく木賃宿の嚊が外に出て來たから、訊いて見ると、その男は昨日日が暮れてから來て泊つたのだといふ。
『人違ひですよ。屹度《きつと》』と甲田は言つた。然し心では矢張りあの學生だらうと思つた。すると福富は、
『否《いゝえ》、違ひません、決して違ひません。』と主張して、衣服《きもの》の事まで詳しく言つた。そして斯う附け加へた。
『屹度、なんですよ。先生からお金《あし》を貰つたから歩くのが可厭《いや》になつて、日の暮れまで何處かで寢てゐて、日が暮れてから、密《そつ》と歸つて來て此村へ泊つて行つたんですよ。』
 さう聞くと、甲田は餘り好い氣持がしなかつた。學校へ行つてから、高等科へ來てゐる木賃宿の子供を呼んで、これ/\の男が昨夜《ゆうべ》泊つたかと訊いた。子供は泊つたと答へた。甲田は愈俺は誑《だま》されたと思つた。そして、其奴《そいつ》が何か學校の話でもしなかつたかと言つた。子供は、何故こんな事を聞かれるのかと心配相な顏をし
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