の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]話に耐《こら》へ切れなくなつて、其室を出た。事務室を下りて暖炉にあたると、受付の広田が「貴方《あんた》新しい足袋だ喃。俺ンのもモウ恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]になつた。」と自分の破けた足袋を撫でた。工場にも行つて見た。活字を選り分ける女工の手の敏捷《すばしこ》さを、解版台の傍に立つて見惚《みと》れて居ると、「貴方は気が多い方ですな。」と職長の筒井に背を叩かれた。文選の小僧共はまだ原稿が下りないので、阿弥陀※[#「鬥<亀」、第3水準1−94−30]をやつてお菓子を買はうと云ふ相談をして居て、自分を見ると、「野村さんにも加担《かた》ツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も来て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機《ロール》には、白い布が被《か》けてあつた。便所《はばかり》へ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺《おやぢ》でなく、予《かね》て噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造りの男が頻りに洋燈掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ悪寒を感じた。何処へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に跟《つ》いて来る。胸の中には絶望の声――「今度こそ真当《ほんたう》の代人《かはり》が来た。汝《きさま》の運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」
上島に逢へば此消息を話して貰へる様な気がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、
『上島君はまだ来ないのか、君?』
と広田に聞いて見た。
『モウ先刻《さつき》に来て先刻に出て行きましたよ。』
と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだ、と思つたが、出て行く所の話ぢやない。編輯局に入ると、主筆が椅子から立ちかけて、
『それぢや田川君、私はこれから一寸社長の宅に行きますから、君も何なら一緒に行つて顔出しゝて来たら怎《どう》です?』
『ア然うですか、ぢや何卒《どうか》伴《つ》れてつて頂きます。』
と田川も立つた。二人は出て行く。野村も直ぐ後から出て、応接室との間の狭い廊下の、突当りの窓へ行つた。モウ決つてる! 決つてる! 嗚呼俺は今日限りだ!
明日から怎《どう》しよう、何処へ行かう、などと云ふ考へを起す余裕もない。「今日限り!」と云ふ事だけが頭脳にも胸にも一杯になつて居て、モウ張裂けさうだ。兎毛《うのけ》一本で突く程の刺戟にも、忽ち頭蓋骨が真二つに破れさうだ。
また編輯局に入つた。竹山が唯一人、凝然《じつ》と椅子に凭れて新聞を読んで居る。一分、二分、……五分! 何といふ長い時間だらう。何といふ恐ろしい沈黙だらう。渠は腰かけても見た、立つても見た、新聞を取つても見た、火箸で暖炉の中を掻廻しても見た。窓際に行つても見た。竹山は凝然《じつ》と新聞を読んで居る。
『竹山さん。』と、遂々《たうたう》耐《こら》へきれなくなつて渠は云つた。悲し気な眼で対手を見ながら、顫ひを帯びて怖々《おづおづ》した声で。
竹山は何気なく顔を上げた。
『アノ!、一寸応接室へ行つて頂く訳に、まゐりませんでせうかねす?』
『え? 何か用ですか、秘密の?』
『ハア、其、一寸其……。』と目を落す。
『此室《ここ》にも誰も居ないが。』
『若し誰か入つて来ると……。』
『然うですか。』と竹山は立つた。
入口で竹山を先に出して、後に跟《つ》いて狭い廊下を三歩か四歩、応接室に入ると、渠は静かに扉《ドア》を閉めた。
割合に広くて、火の気一つ無い空気が水の様だ。壁も天井も純白で、真夜中に吸込んだ寒さが、指で圧してもスウと腹まで伝りさうに冷たく見える。青唐草の被帛《おほひ》をかけた円卓子《まるテイブル》が中央に、窓寄りの暖炉の周囲には、皮張りの椅子が三四脚。
竹山は先づ腰を下した。渠は卓子に左の手をかけて、立つた儘|霎時《しばらく》火の無い暖炉を見て居たが、
『甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》事件です?』
と竹山に訊かれると、忽ち目を自分の足下に落して、
『甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事件と云つて、何、其、外ぢやないんですがねす。』
『ハア。』
『アノ、』と云つたが、此時渠は不意に、自分の考へて居る事は杞憂に過ぎんのぢやないかと云ふ気がした。が『実は其、(と再《また》一寸口を噤《つぐ》んで、)私は今日限り罷めさせられるのぢやないかと思ひますが……』と云つて、妙な笑を口元に漂はしながら竹山の顔を見た。
竹山の眼には機敏な観察力が、瞬く間閃いた。『今日限り? それは又怎してです?』
『でも、』と渠は再《また》目を落した。『でも、モウお決めになつてるんぢやないかと、私は思ひますがねす。』
『僕にはまだ、何の話も無いんですがね。』
『ハア?』と云ふなり、渠は胡散臭い目付をしてチラリと対手の顔を見た。白ツぱくれてるのだとは直ぐ解つたけれど、また何処かしら、話が無いと云つて貰つたのが有難い様な気もする。
暫らく黙つて居たが、『アノ、田川さんといふ人は、今度初めて釧路へ来られたのですかねす?』
『然うです。』と云つて竹山は注意深く渠の顔色を窺つた。
『今迄何処に居た人でせうか?』
『函館の新聞に居た男です。』
『ハア。』と聞えぬ程低く云つたが、霎時《しばし》して又、『二面の方ですか、三面の方ですか?』
『何方もやる男です。筆も兎に角立つし、外交も仲々抜目のない方だし……。』
『ハア。』と再《また》低い声。『で今後《これから》は?』
『サア、それは未だ決めてないんだが、僕の考へぢやマア、遊軍と云つた様な所が可いかと思つてるがね。』
渠は心が頻りに苛々《いらいら》してるけれど、竹山の存外平気な物言ひに、取つて掛る機会《しほ》がないのだ。一分許り話は断えた。
『アノ、』と渠は再び顔をあげた。『ですけれども、アノ方が来たから私に用がなくなつたんぢやないですかねす?』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》訳は無いでせう。僕はまだ、モ一人位入れようかと思つてる位だ。』
『ハ?』と野村は、飲込めぬと云つた様な眼付をする。
『僕は、五月の総選挙以前に六頁に拡張しようと考へてるんだが、社長初め、別段不賛成が無い様だ。過般《こなひだ》見積書も作つて見たんだがね。六頁にして、帯広のアノ新聞を買つて了つて、釧路十勝二ヶ国を勢力範囲にしようと云ふんだ。』
『ハア、然うですかねす。』
『然うなると君、帯広支社にだつて二人位記者を置かなくちやならんからな。』
渠の頭脳《あたま》は非常に混雑して来た。嗚呼、俺は罷めさせられるには違ひないんだ。だが、竹山の云つてる処も道理《もつとも》だ。成程然うなれば、まだ一人も二人も人が要る。だが、だが、ハテナ、一体社の拡張と俺と、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》関係になつてるか知ら? 六頁になつて……釧路十勝二ヶ国を……帯広に支社を置いて……田川が此方に居るとすると俺は要らなくなるし……田川が帯広に行くと、然うすると俺も帯広にやられるか知ら……ハテナ……恁《か》うと……それはまだ後の事だが……今日は怎《どう》か知ら、今日は?……
『だがね、君。』と、稍あつてから低めた調子で竹山が云つた時、其声は渠の混雑した心に異様に響いて、「矢張今日限りだ」といふ考へが征矢《そや》の如く閃いた。
『だがね、君、僕は率直に云ふが、』と竹山は声を落して眼を外らした。『主筆には君に対して余り好い感情を有《も》つてない様な口吻が、時々見えぬでも無い。……』
ソラ来た! と思ふと、渠は冷水を浴びた様な気がして、腋の下から汗がタラタラと流れ出した。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時|颯《さつ》と引いた様で、急に気がスツキリとする。凝《じつ》と目を据ゑて竹山を見た。
『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所《とこ》へ行つたさうだがね。』
『何と云つて行きました?』と不思《おもはず》。
『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』竹山は口を噤《つぐ》んで渠の顔を見た。
『竹山さん、私は、』と哀し気な顫声《ふるひごゑ》を絞つた。『私はモウ何処へも行く所のない男です。種々《いろん》な事をやつて来ました。そして方々歩いて来ました。そして、私はモウ行く所がありません。罷めさせられると其限《それつきり》です。罷めさせられると死にます。死ぬ許りです。餓ゑて死ぬ許りです。貴君方は餓ゑた事がないでせう。嗚呼、私は何処へ行つても大きな眼《まなこ》に睨められます。眠つてる人も私を視て居ます。そして、』と云つて、ギラギラさして居た目を竹山の顔に据ゑたが、『私は、自分の職責《しごと》は忠実《まじめ》にやつてる積りです。毎日出来るだけ忠実《まじめ》にやつてる積りです。毎晩町を歩いて、材料《たね》があるかあるかと、それ許り心懸けて居ります。そして、昨夜も遅くまで、』と急に句を切つて、堅く口を結んだ。
『然う昨夜《ゆうべ》も、』と竹山は呟く様に云つたが、ニヤニヤと妙な笑を見せて、『病院の窓は、怎うでした?』
野村はタヂタヂと二三歩|後退《あとじさ》つた。噫、病院の窓! 梅野とモ一人の看護婦が、寝衣《ねまき》に着換へて淡紅色《ときいろ》の扱帯《しごき》をしてた所で、足下《あしもと》には燃える様な赤い裏を引覆《ひつくらか》へした、まだ身の温《ぬくも》りのありさうな衣服《きもの》! そして、白い脛が! 白い脛が!
見開いた眼には何も見えぬ。口は蟇《がま》の様に開けた儘、ピクリピクリと顔一体が痙攣《ひきつ》けて両側《りやうわき》で不恰好に汗を握つた拳がブルブル顫へて居る。
「神様、神様。」と、何処か心の隅の隅の、ズツと隅の方で…………。[#地から1字上げ](五月二十六日脱稿)
[#地から1字上げ]〔生前未発表・明治四十一年五月稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
※生前未発表、1908(明治41)年5月執筆のこの作品の本文を、底本は、土岐善麿氏所蔵啄木自筆原稿によっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、103−下−18と104−上−5の「釧路十勝二ヶ国」をのぞいて、大振りにつくっています。
※「揶揄《からか》つた」と「揄揶《からか》つて」の混在は、底本通りです。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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