考へを起す余裕もない。「今日限り!」と云ふ事だけが頭脳にも胸にも一杯になつて居て、モウ張裂けさうだ。兎毛《うのけ》一本で突く程の刺戟にも、忽ち頭蓋骨が真二つに破れさうだ。
 また編輯局に入つた。竹山が唯一人、凝然《じつ》と椅子に凭れて新聞を読んで居る。一分、二分、……五分! 何といふ長い時間だらう。何といふ恐ろしい沈黙だらう。渠は腰かけても見た、立つても見た、新聞を取つても見た、火箸で暖炉の中を掻廻しても見た。窓際に行つても見た。竹山は凝然《じつ》と新聞を読んで居る。
『竹山さん。』と、遂々《たうたう》耐《こら》へきれなくなつて渠は云つた。悲し気な眼で対手を見ながら、顫ひを帯びて怖々《おづおづ》した声で。
 竹山は何気なく顔を上げた。
『アノ!、一寸応接室へ行つて頂く訳に、まゐりませんでせうかねす?』
『え? 何か用ですか、秘密の?』
『ハア、其、一寸其……。』と目を落す。
『此室《ここ》にも誰も居ないが。』
『若し誰か入つて来ると……。』
『然うですか。』と竹山は立つた。
 入口で竹山を先に出して、後に跟《つ》いて狭い廊下を三歩か四歩、応接室に入ると、渠は静かに扉《ドア》を閉めた。

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