めなかつたに不拘、時として右側に逸《そ》れ、時として左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋《さかや》、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麦屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金《かり》を拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン/\借りる。借りるけれども初めから返す予算《よさん》があつて借りるのでないから、流石に渠は其《その》家《うち》の人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反対の側の軒下を歩く。
幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける様な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇《くらがり》を歩いてる時に、
『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方へ行《いら》つしやるの?』と女に呼掛けられた。
渠は唸る様な声を出して、ズキリと立止つて、胡散臭《うさんくさ》く対手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。
『貴女《あなた》でしたか。』
と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる様だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合《すれあ》ひさうに近く立つた。
『貴女お一人で何方へ?』
『
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