り》其硝子戸を開けて、腰を屈めて白木綿を潜つたが、左の肩を上げた其影法師が、二分間許りも明瞭《くつきり》と垂帛《カーテン》に映つて居た。
此家は、三日程前に、職人の一人が病死して葬式を出した家であつた。
三十分許り経つと、同じ影法師が又もや白木綿に映つて、「態々《わざわざ》お出下すつたのに何もお構ひ申しませんで。」といふ女の声と共に、野村は戸外へ出て来た。
十間も行くと、旅館の角に立止つて後を振顧《ふりかへ》つたが、誰も出て見送つてる者がない。と渠は徐々《そろそろ》歩き出しながら、袂を探つて何やら小さい紙包を取出して、旅館の窓から漏れる火光《あかり》に披《ひら》いて見たが、
『何だ、唯《たつた》一円五十銭か!』
と口に出して呟いた。下宿料だけでも二月分で二十二円! 少くとも五円は出すだらうと思つたのに、と聞えぬ様にブツ/\云つて、チヨツと舌打をしたが、気が付いた様に急がしく周囲《あたり》を見廻した。それでも渠は珍らしさうに五十銭銀貨三枚を握つて見て、包紙は一応|反覆《ひつくらかへ》して何か書いてあるかと調べた限《き》り、皺くちやにして捨てゝ了つたが、又袂を探してヘナ/\になつた赤いレース糸で編んだ空財布を出して、それに銀貨を入れて、再び袂に納《しま》つた。
さてこれから怎したもんだらう? と考へたが、二三軒向うに煙草屋があるのに目を付けて、不取敢《とりあへず》行つて、「敷島」と「朝日」を一つ宛《づつ》買つて、一本|点《つ》けて出た。モ少し行くと右側の狭い小路の奥に蕎麦屋があるので、一旦其方へ足を向けたが、「イヤ、先づ竹山へ行つて話して置かう。」と考へ付いて、引返して旅館の角を曲つたが、一町半許りで四角になつて居て、左の角が例の共立病院、それについて曲ると、病院の横と向合《むかひあ》つて竹山の下宿がある。
竹山の室は街路《みち》に臨んだ二階の八畳間で、自費で据附けたと云ふ暖炉が熾んに燃えて居た。身の廻りには種々《いろいろ》の雑誌やら、夕方に着く五日前の東京新聞やら手紙やらが散らかつて居て、竹山は読みさしの厚い本に何かしら細かく赤インキで註を入れて居たが、渠は入ると直ぐ、ボーツと顔を打つ暖気《あたたかさ》に又候《またぞろ》思出した様に空腹を感じた。来客の後と見えて、支那焼の大きな菓子鉢に、マスマローと何やらが堆《うずた》かく盛つて、煙草盆の側《わき》にある
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