》しても身を屈《こご》ませ乍ら、大事々々に足をつり出したが、遽かに腹が減つて来て、足の力もたど/\しい。喉からは変な水が湧いて来る。二時間も前から鳩尾《みぞおち》の所に重ねて、懐に入れておいた手で、襯衣の上からズウと下腹まで摩《さす》つて見たが、米一粒入つて居ぬ程凹んで居る。渠はモウ一刻も耐らぬ程食慾を催して来た。それも其筈、今朝九時頃に朝飯を食つてから、夕方に小野山の室で酒を飲んで鯣の焙《あぶ》つたのを舐《しやぶ》つた限《きり》なのだ。
 浅間しい事ではあるが、然しこれは渠にとつて今日に限つた事でなかつた。渠は米町裏のトある寺の前の素人下宿に宿つて居るけれど、モウ二月越《ふたつきごし》下宿料を一文も入れてないので、五分と顔を見てさへ居れば、直ぐそれを云ひ出す宿の主婦《おかみ》の面《つら》が厭で、起きて朝飯を食ふと飛び出した儘、昼飯は無論食はず、社から退けても宿へ帰らずに、夕飯にあり付きさうな家を訪ね廻る。でなければ、例の新聞記者と肩書を入れた名刺を振廻して、断られるまでは蕎麦屋牛鍋屋の借食《かりぐひ》をする。それも近頃では殆んど八方塞がりになつたので、少しの機会も逸《のが》さずに金を得る事ばかり考へて居るが、若し怎《どう》しても夕飯に有付けぬとなると、渠は何処かの家に坐り込んで、宿の主婦の寝て了ふ十時十一時まで、用もない喫茶談《ちやのみばなし》を人の迷惑とも思はぬ。十五円の俸給は何処に怎《どう》使つて了ふのか、時として二円五十銭といふ畳付《たたみつき》の下駄を穿いたり、馬鹿に派手な羽織の紐を買つたりするのは人の目にも見えるけれど、残余《あと》が怎なるかは、恐らく渠自身でも知つて居まい。
 餓ゑた時程人の智《かしこ》くなる時はない。渠は力の抜けた足を急がせて、支庁坂を下《お》りきつたが、左に曲ると両側の軒燈《ともしび》明るい真砂町の通衢《とほり》。二町許りで、トある角に立つた新築の旅館の前まで来ると、渠は遽かに足を緩めて、十五六間が程を二三度行きつ戻りつして居たが、先方《むかう》から来た外套の頭巾目深の男を遣過《やりすご》すと、不図|後前《あとさき》を見廻して、ツイと許り其旅館の隣家《となり》の軒下に進んだ。
 硝子戸が六枚、其内側に吊した白木綿の垂帛《カーテン》に洋燈の光が映えて、廂の上の大きなペンキ塗の看板には、「小宮洋服店」と書いてあつた。
 渠は突然《いきな
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