右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》事を云つたらうと再《また》考へる。
渠は二時間の間此病院で過した。煙草を喫みたくなつた時、酒を飲みたくなつた時、若い女の華やいだ声を聞きたくなつた時、渠は何日でも此病院へ行く。調剤室にも、医員の室にも、煙草が常に卓子《ていぶる》の上に備へてある。渠が、横山――左の蟀谷《こめかみ》の上に二銭銅貨位な禿があつて、好んで新体詩の話などをする、二十五六のハイカラな調剤助手に強請《ねだ》つて、赤酒《せきしゆ》の一杯二杯を美味さうに飲んで居ると、屹度誰か医者が来て、私室へ伴れて行つて酒を出す。七人の看護婦の中、青ざめた看護婦長一人を除いては、皆、美しくないまでも若かつた。若くないまでも、少くとも若々しい態度《やうす》をして居た。人間の手や足を切断したり、脇腹を切開したりするのを、平気で手伝つて二の腕まで血だらけにして居る輩《やから》であるから、何れも皆男といふ者を怖れて居ない。怖れて居ない許りか、好んで敗けず劣らず無駄口を叩く。中にも梅野といふのは、一番美しくて、一番お転婆で、そして一番ハイカラで、実際は二十二だといふけれど、打見には十八位にしか見えなかつた。野村は一日として此三つの慾望に餓ゑて居ない日は無いので、一日として此病院を訪れぬ日はなかつた。
渠が先づ入るのは、玄関の直ぐ右の明るい調剤室であつた。此室に居る時は、平生《いつも》と打つて変つて渠は常に元気づいて居る。新聞の材料は総て自分が供給する様な話をする。如何なる事件にしろ、記事になるとならぬは唯自分一箇の手加減である様な話をする。同僚の噂でも出ると、フフンと云つた調子で取合はぬ。渠は今日また頻《しき》りに其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》話をして居たが、不図小宮洋服店の事を思出した。が、渠は怎したものか、それを胸の中で圧潰《おしつぶ》して了つて考へぬ様にした。横山助手は、まだ半分しか出来ぬと云ふ『野菫』と題した新体詩を出して見せた。渠はズツとそれに目を通して、唯「成程」と云つたが、今自分が或非常な長篇の詩を書き初めて居ると云ふ事を話し出した。そして、それが少くとも六ヶ月位かかる見込だが、首尾克く脱稿したら是非東京へ行つて出版する。僕の運命の試金石はそれです、と熱心に語つた。梅野は無論|其《その》傍《かた
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