日の事、不図思付いて木下主筆を其自宅に訪問した。初めは人相の悪い奴だと思つたが、黒木綿の大分汚なくなつた袴を穿いて居たのが、蕎麦屋の出前持をする男には珍らしいと云ふので、褊狭者《ひねくれもの》の主筆が買つてやつたのだと云ふ。
主筆は時々、「野村君は支那語を知つてる癖に何故北海道あたりへ来たんだ?」と云ふが、其度渠は「支那人は臭くて可けません。」と云つた様な答をして居た。
北国の二月は暮れるに早い。四時半にはモウ共立病院の室々《へやへや》に洋燈《ランプ》の光が華やぎ出して、上屐《うはぐつ》の辷る程拭込んだ廊下には食事の報知《しらせ》の拍子木が軽い反響を起して響き渡つた。
と、右側の或室から、さらでだに前|屈《こご》みの身体を一層屈まして、垢着いた首巻に頤を埋めた野村が飛び出して来た。広い玄関には洋燈の光のみ眩しく照つて、人影も無い。渠は自暴糞《やけくそ》に足を下駄に突懸けたが、下駄は翻筋斗《もんどり》を打つて三尺許り彼方《むかう》に転んだ。
以前《まへ》の室から、また二人廊下に現れた。洋服を着た男は悠然《ゆつたり》と彼方へ歩いて行つたが、モ一人は白い兎の跳る様に駆けて来ながら、
『野村さん/\、先刻お約束したの忘れないでよ。』と甲高い声で云つて玄関まで来たが、渠の顔を仰ぐ様にして笑ひ乍ら、『今度欺したら承知しませんよ。真実《ほんと》ですよ、ねえ野村さん。』と念を推した。これは此病院で評判の梅野といふ看護婦であつた。
渠《かれ》は唯唸る様な声を出しただけで、チラと女の顔を見たつきり、凄じい勢ひで戸外《おもて》へ出て了つた。落着かない眼が一層恐ろしくギラギラして、赤黒く脂ぎつた顔が例の烈しい痙攣《ひきつけ》を起して居る。少なからず酔つて居るので、吐く呼気《いき》は酒臭い。
戸外はモウ人顔も定かならぬ程暗くなつて居た。ザクザクと融けた雪が上面《うはつつら》だけ凍りかかつて、夥《おびただ》しく歩き悪い街路を、野村は寒さも知らぬ如く、自暴《やけ》に昂奮《たかぶ》つた調子で歩き出した。
「何を約束したつたらう?」と考へる。何かしら持つて来て貸すと云つた! 本? 否《いや》俺は本など一冊も持つて居ない。だが、確かに本の事だつた筈だ。何の本? 何の本だつて俺は持つて居ない。馬鹿な、マア怎《どう》でも可いさと口に出して呟いたが、何故|那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の
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