から駄目なんですツて。』と云ふなり、畳に突伏して転げ歩いて笑つた。
 牛込に移つてから二月許り後の事、恰度師走上旬であつたが、野村は小石川の何とか云ふ町の坂の下の家とかを、月十五円の家賃で借りて、「東京心理療院」と云ふ看板を出した。そして催眠術療法の効能を述立《のべた》てた印刷物《すりもの》を二千枚とか市中に撒いたさうな。其後二度許り竹山を訪ねて来たが、一度はモウ節季近い凩《こがらし》の吹き荒れて、灰色の雲が低く軒を掠めて飛ぶ不快な日で、野村は「患者が一人も来ない。」と云つて悄気《しよげ》返つて居た。其日は服装《なり》も見すぼらしかつたし、云ふ事も「清い」とか「美しい」とか云ふ詞《ことば》沢山の、神経質な厭世詩人みたいな事許りであつたが、珍らしくも小半日落着いて話した末、一緒に夕飯を食つて、帰りに些《ち》と許りの借りた金の申訳をして行つた。一番最後に来たのは、年が新らしくなつた四日目か五日目の事で、呂律《ろれつ》の廻らぬ程酔つて居たが、本郷に居ると許りで、詳しく住所を云はなかつた。帰りは雨が降り出したので竹山の傘を借りて行つた限《きり》、それなりに二人は四年の間殆んど思出す事もなかつたのだ。が、唯一度、それから二月か三月|以後《のち》の事だが、或日巡査が来て野村の事を詳しく調べて行つたと、下宿の主婦が話して居た事があつた。
 其四年間の渠の閲歴は知る由もない。渠自身も常に其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]話をする事を避けて居たが、それでもチヨイチヨイ口に出るもので、四年前の渠が知つてなかつた筈の土地の事が、何かの機会に話頭《わたう》に上る。静岡にも居た事があるらしく、雨の糸の木隠《こがくれ》に白い日に金閣寺を見たといふから、京都にも行つたのであらう。石井孤児院長に逢つた事があると云つて非常に敬服して居たから、岡山へも行つたらしい。取わけ竹山に想像を費さしたのは、横浜の桟橋に毎日行つて居た事があるといふ事と、其処の海員周旋屋の内幕に通暁して居た事であつた。鹿角《かづの》郡の鉱山は尾去沢も小坂もよく知つて居た。釧路へは船で来たんださうで、札幌小樽の事は知らなかつたが、此処で一月半許りも、真砂町の或蕎麦屋の出前持をして居たと云ふ事は、町で大抵の人が知つて居た。無論これは方々に職業《くち》を求めて求め兼ねた末の事であるが、或日曜
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