ざす靈魂の希望とを歌ふといふ序歌だけでも、優に二百行位になる筈なので、渠は此詩の事を考へると、話に聞いただけの(隨つて左程|豪《えら》いとも面白いとも思はなかつた、)ダンテの『神聖喜曲《デイビナコメヂヤ》』にも劣らぬと思ふので、其時は、自分が今こそ恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》釧路あたりの新聞の探訪をしてるけれど、今に見ろ、今に見ろ、といふ樣な氣になる。
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嗚呼々々、大初、萬有《ものみな》の
いまだ象《かたち》を……
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と、渠は小聲に抑揚《ふし》をつけて讀み出した。が、書いてあるのは唯十二三行しかないので、直ぐに讀終へて了ふ。と繰返して又讀み出す。恁《か》うして渠は、ものゝ三十遍も同じ事を續けた。
初は、餘念の起るのを妨げようと、凝然《ぢつ》と眉間に皺を寄せて苦い顏をしながら讀んで居たが、十遍、二十遍と繰返してるうちに、何時しか氣も落着いて來て眉が開く。渠は腕組をして、一向に他の事を思ふまいと、詩の事許りに心を集めて居たが、それでも時々、ピクリピクリと痙攣《ひきつけ》が顏に現れる。
軈て鐵筆《ペン》を取上げた。幾度か口の中で云つて見て、頭を捻つたり、眉を寄せたりしてから、「人祖この世に罪を得て、」と云ふ句に亞《つ》いで、
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人の子枕す時もなし。
ああ、
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と書いたが、此「ああ」の次が出て來ない。で、渠は思出した樣に煙草に火をつけたが、不圖次の句が頭腦に浮んだので、口元を歪《ゆが》めて幽かに笑つた。
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ああ、み怒りの雲の色、
審判《さばき》の日こそ忍ばるれ。
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と、手早く書きつけて、鐵筆《ペン》を擱いた。此後は甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》事を書けばよいのか、まだ考へて居ないのだ。で、渠は火鉢に向直つて、頭だけ捻つて、書いただけを讀返して見る。二三遍全體を讀んで見て、今度は目を瞑つて今書いた三行を心で誦《ず》した。
「人の子枕す時もなし、ああみ怒り……審判の日……。」「人の子枕す……」然《さ》うだ、實際だ。人の子は枕する時もない。人の子は枕する時もない。世界十幾億の人間、男も、女も眞實《まつたく》だ。人の子は枕する時もない。實際然うだ、寢ても不安、起きても不安! 夢の無い眠を得る人が一人でもあらうか! 金を持てば持つたで惡い事を、腹《はら》が減《へ》れば減つたで惡い事を、噫、寢てさへも、寢てさへも、實際だ、夢の中でさへも惡い事を! 夢の中でさへも俺は、噫、俺は、俺は、俺は…………
恐ろしい苦悶が地震の樣に忽ち其顏に擴がつた。それが刻一刻に深くなつて行く。瞬一瞬に烈しくなつて行く。見ろ、見ろ、人の顏ぢやない。全く人の顏ぢやない。鬼? 鬼の顏とは全くだ。種々な事が胸に持上つて來る。渠はそれと戰つて居る。思出すまいと戰つて居る。幾何壓しつけても持上がる。あれもこれも持上がる。終には幾十幾百幾千の事が皆一時に持上る。渠は一生懸命それと戰つて居る。戰つて戰つて、刻一刻に敗けて行く。一瞬一瞬に敗けて行く。
「俺は親不孝者だ!」と云ふ考へが、遂に渠を征服した。胸の中で「一圓五十錢!」と叫ぶ。脅喝、詐僞、姦通、強姦、喰逃……二十も三十も一時に喊聲をあげて頭腦を蹂躙《ふみにじ》る。見まい、聞くまい、思出すまいと、渠は矢庭に机の上の『創世乃卷』に突伏した。それでも見える、母の顏が見える。胸の中で誰やら「貴樣は罪人だ。」と叫ぶ、「警察へ行け。」と喚《わめ》く。と渠は、横濱で唯《たつた》十錢持つて煙草買ひに行つた時、二度三度呼んでも、誰も店に出て來なかつたので、突然「敷島」を三つ浚つて逃げた事を思ひ出した。渠はキリキリと齒を喰しばつた。噫、俺は一日として、俺は何處へ行つても、俺は、俺は、……と思ふと、凄じい髯面が目の前に出た。それは渠が釧路へ來て泊る所のなかつた時、三晩一緒に暮した乞食だ。知人《しりと》岬の神社に寢た乞食だ。俺はアノ乞食の嚊を二度姦した! 乞食の嚊を、この髯面の嚊を……髯面がサッと朱を帶びた。カインの顏だ。アダムの子のカインの顏だ。何處へ逃げても御空から大きな眼に睨められたカインの顏だ。土穴を掘つて隱れても大きな眼に睨められたカインの顏だ。噫、カインだ、カインだ、俺はカインだ!
俺はカインだ! と總身に力を入れて、兩手に机の縁を攫んで、突然身を反らした。齒を喰しばつて、堅く堅く目を閉ぢて、頭が自づと後に垂れる。胸の中が掻裂かれる樣で、スーッと深く息を吸ふと、パッと目があいた。と、空から見下す大きな眼! 洋燈の眞上に徑二尺、眞黒な天井に圓く描かれた大きな眼!「俺はツ」と渠は聲を絞つた。
「ウヽ」と聲がしたので、電氣に打たれた樣に、全身の毛を逆立てた。渠の聲が高かつたので、佐久間が夢の中で唸つたのだ。渠は恐しき物を見る樣に、佐久間の寢顏を凝視《みつ》めた。眠れりとも、覺めたりともつかぬ、半ば開いた其眼! 其眼の奧から、誰かしら自分を見て居る。誰かしら自分を見て居る。…………
野村はモウ耐らなくなつて、突然立上つた。「俺は罪人だ、神樣!」と心で叫んで居る。襖を開けたも知らぬ。長火鉢に躓《つまづ》いたも知らぬ。眞暗で誰のだか解らぬが、兎に角下駄らしいものを足に突懸けて、渠は戸外《そと》へ飛出した。
西寺の横の坂を、側目も振らず上つて行く。胸の上に堅く組合せた拳の上に、冷い冷い涙が、頬を傳つてポタリポタリと落つる。「神樣、神樣。」と心は續け樣《ざま》に叫んで居る。坂の上に鋼鐵色の空を劃《かぎ》つた教會の屋根から、今しも登りかけた許りの二十日許りの月が、帽子も冠らぬ渠の頭を斜めに掠めて、後に長い長い影を曳いた。
十二時半頃であつた。
寢る前の平生《いつも》の癖で、竹山は窓を開けて、煖爐《ストーブ》の火氣に鬱した室内の空氣を入代へて居た。闃《げき》とした夜半の街々、片割月が雪を殊更寒く見せて、波の音が遠い處でゴウゴウと鳴つて居る。
直ぐ目の下の病院の窓が一つ、パッと火光《あかり》が射して、白い窓掛《カーテン》に女の影が映つた。其影が、右に動き、左に動き、手をあげたり、屈んだり、消えて又映る。病人が惡くなつたのだらうと思つて見て居る。
と、眞砂町を拔ける四角から、黒い影が現れた。ブラリブラリと俛首《うなだ》れて歩いて來る。竹山は凝と月影に透して視て居たが、怎《どう》も野村らしい。帽子も冠つて居ず、首卷も卷いて居ない。
其男は、火光《あかり》の射《さ》した窓の前まで來ると、遽かに足を留めた。女の影がまた瞬時《しばらく》窓掛《カーテン》に映つた。
男は、足音を忍ばせて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。
一分も經《た》つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い彈機《ばね》に彈かれた樣に、五六歩窓際を飛び退《ずさ》つた。「呀《あ》ツ」と云ふ女の聲が聞えて、間もなく火光《あかり》がパッと消えた。窓を開けようとして、戸外《そと》の足音に驚いたものらしい。
男は、前より俛首《うなだ》れて、空氣まで凍つた樣な街路《みち》を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町の方へ去つた。
翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ビクリビクリと痙攣《ひきつけ》が時々顏を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲勞の壓迫が、重くも頭腦に被さつて居る。胸の底の底の、ズット底の方で、誰やら泣いて居る樣な氣がする。
氣が拔けた樣に※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を着た見知らぬ男が、煖爐《ストーブ》を取圍いて、竹山が何か調子よく話して居た。
野村も其煖爐に近づいた時、見知らぬ男が立つて禮をした。渠も直ぐ禮を返したが、少し周章氣味《あわてぎみ》になつてチラリと其男を見た。二十六七の、少し吊つた眼に才氣の輝いた、皮膚《はだ》滑かに苦味走つた顏。
『これは野村新川君です。』と主筆は腰かけた儘で云つた。そして渠の方を向いて、『この方は今日から入社する事になつた田川勇介君です。』
渠は電光の如く主筆の顏を偸視《ぬすみみ》たが、大きな氷の塊にドシリと頭を撃たれた心地。
『ハア然《さ》うですか。』と挨拶はしたものの、總身の血が何處か一處に塊つて了つた樣で、右の手と左の手が交る交るに一度宛、發作的にビクリと動いた。色を變へた顏を上げる勇氣もない。
『アノ人は面白い人でして、得意な論題でも見つかると、屹度先づ給仕を酒買にやるんです。冷酒を呷りながら論文を書くなんか、アノ温厚な人格に比して怎《どう》やら奇蹟の感があるですな。』と、田川と呼ばれた男が談り出した。誰の事とも野村には解らぬが、何れ何處かの新聞社に居た人の話らしい。
『然う然う、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》癖がありましたね。一體|一寸々々《ちよい/\》奇拔な事をやり出す人なんで、書く物も然うでしたよ。恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》下らん事をと思つてると、時々素的な奴を書出すんですから。』と竹山が相槌を打つ。
『那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あゝ》いふ男は、今の時世ぢや全く珍しい。』と主筆が鷹揚に嘴を容《はさ》んだ。『アレでも若い時分には隨分やつたもので、私の縣で自由民權の論を唱導し出したのは、全くアノ男と何とか云ふモ一人の男なんです。學問があり演説は巧いし、剩《おまけ》に金があると來てるから、宛然《まるで》火の玉の樣に轉げ歩いて、熱心な遊説をやつたもんだが、七八萬の財産が國會開會以前に一文も無くなつたとか云ふ事だつた。』
『全く惜しい人です喃《なあ》、函館みたいな俗界に置くには。』と田川は至極感に打たれたと云ふ口吻《くちぶり》。
野村は到頭|恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》話に耐へ切れなくなつて、其室を出た。事務室を下りて煖爐《ストーブ》にあたると、受附の廣田が「貴方新しい足袋だ喃。俺ンのもモウ恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]になつた。」と自分の破れた足袋を撫でた。工場にも行つて見た。活字を選り分ける女工の手の敏捷さを、解版臺の傍に立つて見惚れて居ると、「貴方は氣が多い方ですな。」と職長の筒井に背を叩かれた。文選の小僧共はまだ原稿が下りないので、阿彌陀鬮《あみだくぢ》をやつてお菓子を買はうと云う相談をして居て、自分を見ると「野村さんにも加擔《かた》ツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も來て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機《ロール》には、白い布が被けてあつた。便所へ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺でなく[#「でなく」は底本では「なでく」]、豫て噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造の男が頻りに洋燈《ランプ》掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷《や》めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ惡氣《さむけ》を感じた。何處へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に踉《つ》いて來る。胸の中には絶望の聲――「今度こそ眞當《ほんたう》の代人《かはり》が來た。汝《きさま》の運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」
上島に逢へば此消息を話して貰へる樣な氣がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、
『上島君はまだ來ないのか、君!』
と廣田に聞いて見た。
『モウ先刻《さつき》に來て先刻に出て行きましたよ。』
と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだが、と思つたが、出て行く所の話ぢやない、編輯局に入ると
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