滑稽になつてつい口に出して笑つて見る。手を叩いて更に「天麩羅二つ」と吩附《いひつ》けた。
 それも平らげて了ふと、まだ何か喰ひたい樣だけれど、モウ腹が大分張つて來たので、止めた。と、眠氣が催すまでに惡落着がして來て、悠然と改めて室の中を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]したが、「敷島」と「朝日」と交代に頻に喫ひながら、到頭ゴロリと横になつた。それでも、階段に女中の足音がする度、起直つて知らん振をして居たが、恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》具合にして渠は、階下《した》の時計が十時を打つまで、隨分長い間此處に過した。一度、手も拍たぬのに女中が來て、「お呼びで厶いますか?」と襖を開けたが、それはモウ歸つて呉れと云ふ謎だと氣が附いたけれど、悠然《ゆつたり》と落着いて了つた渠の心は、それしきの事で動くものでない。
 恁《かく》許り悠然した心地は渠の平生に全くない事であつた。顏には例の痙攣《ひきつけ》も起つて居ない。物事が凡て無造作で、心配一つあるでなく、善とか惡とか云ふ事も全く腦裡から消えて了つて、渠はそれからそれと靜かに考へを※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]らして居たが、第一に多少の思慮を費したのは、小宮洋服店から如何にしてモット金を取るべきかと云ふ問題であつた。それに自分一人よりも相棒のある方は都合が可いと考へついたので、渠は其人選にアレかコレかと迷つた末、まだ何も知らぬ長野の奴を引張り込まうと決心した。
 と、渠はその長野の馬鹿に氣の利かぬ事を思出して、一人で笑つた。それは昨日の事、奴が竹山から東京電報の飜譯を命ぜられて、唯五六通に半時間もかかつて居たが、
『ええ一寸伺ひますが、……怎《どう》もまだ慣れませんで(と申譯をしておいて、)カンカインとは怎《どう》かくんでせうか。』
『感化院さ。』と云つて竹山が字を書いて見せた。すると、
『ア然うですか。ぢやモ一つ、ええと、鎌田といふ大臣がありましたらうか? 一寸聞きなれない樣ですけれど。』
『無い。』
『然うですか喃。イヤ其、電文にはカナダとあるんですけれど、金田といふ大臣は聞いた事がないから、鎌田の間違ぢやないかと思ひまして。』
『ドレ見せ給へ。』と竹山は其電報を取つて『何だ、「加奈太大臣ルミユー氏」ぢやないか。今度日本へ來た加奈太政府の勞働大臣さ。』
『然うですか。怎《どう》も慣れませんもので。』
 これで皆が思はず笑つたので、流石に長野も恥かしくなつたと見えて、顏を眞赤にしたが、今度は自分の袂を曳いて、「陸軍ケイホウのケイホウは怎《どう》う書きませう。」と小聲で訊ねる、「警報さ」と書いて見せると、「然《さ》うですか、怎《どう》も有難う。」と云つたが、「何だい、何だい?」と竹山が云ふので、「陸軍ケイホウです。」と答へると、「ケイホウは刑罰の刑に法律の法だぜ。」と云ふ。俺もハッとしたが、長野は「然《さ》うですか。」と云つたきり、俺には何とも云はず、顏を赤くした儘、其教へられた通り書いて居た。すると竹山は、以後毎日東京や札幌の新聞を讀めと長野に云つて、
『鎌田といふ大臣のあるか無いかは理髮店の亭主だつて知つてるぢやないか。東京新聞を讀んで居れば、刻下の問題の何であるかが解るし、翌日の議會の日程に上る法律案などは札幌小樽の新聞に載つてるし、毎日新聞さへ讀んでれば電報の譯せんことがない筈なんだ。昨晩だつて君、九時頃に來た電報の「北海道官有林附與問題」といふのを、君が「不用問題」と書いたつて、工場の小僧共が笑つてたよ。」
 長野の眞赤にした大きい顏が、霎時《しばらく》渠の眼を去らないで、悠然として笑を續けさせて居た。
 それから渠は、種々《いろ/\》と竹山の事も考へて見た。竹山が折角東京へ乘込んで詩集まで出して居ながら、新聞記者などになつて北海道の隅ツこへ流れて來るには、何かしら其處に隱された事情があるに違ひない。屹度暗い事でもして來たんだらう。然《さ》うでなければ、と考へて渠は四年前の竹山について、それかこれかと思出して見たが、一度下宿料を半金だけ入れて、殘りは二三日と云つたのが、到頭十日も延びたので、下宿のアノ主婦が少し心配して居つた[#「居つた」は底本では「居たつた]外、これぞと思ふ事も思出せなかつた。
 竹山の下宿は社に近くて可い、と思ふ。すると又病院の事が心に浮ぶ。それとなき微笑が口元に湧いて、梅野の活溌なのが喰ひつきたい程可愛く思はれる。梅野は美しい、白い。背は少し低いが、……アノ眞白な肥つた脛、と思ふと、渠の口元は益々緩んだ。醫者の小野山も殆んど憎くない。不圖したら彼奴も此頃では、看護婦長に飽きて梅野に目をつけてるのぢやないかとも考へたが、それでも些《ちつ》とも憎くない。梅野は美しいから人の目につく。けれども矢張|彼女《あれ》は俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ、彼女の擧動はまだ男を知つて居ないらしいが、那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》に若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に觸れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面こそ處女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃。……
 十時の時計を聞くと、渠は勘定を濟ませて蕎麥屋から出た。休坂《やすみざか》を上つて釧路座の横に來ると、十日程前に十軒許り燒けた火事跡に、雪の中の所々から、眞黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬が泳いでる樣に。

 少し行くと、右側のトある家の窓に火光《あかり》がさして居る。渠は其窓際へ寄つて、コツコツと硝子を叩いた。白い窓掛に手の影が移つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵に三十五六の蒼白い女が居る。
『蝶吉さんは未だ歸らないの?』
と優しい低い聲で云つた。
『え、未だ。』と女は窓外《そと》を覗いたが『マア野村さんですか。姐さん達は十二時でなくちや歸りませんの。』
 これは彼がよく遊びに行く藝者の宅《うち》で、蝶吉と小駒の二人が、「小母《おば》さん」と呼ぶ此女を雇つて萬事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰氣な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外《そと》を覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先程から氣が悠然《ゆつたり》と寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ氣がした。
『又來るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓際を離れて、「主婦《おかみ》はモウ大丈夫寢たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。
 四角《よつかど》を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、右は高くなつた西寺と呼ぶ眞宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突《とつつき》の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も眞暗になつて居る。渠は成るべく音のしない樣に、入口の硝子戸を開《あ》けて、閉《た》てて、下駄を脱いで、上框の障子をも開けて閉てた。此室《こゝ》は長火鉢の置いてある六疊間。亭主は田舍の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に當る十六の少年と、三人の女兒とが、此室《こゝ》に重なり合ふ樣になつて寢て居るのだが、渠は慣れて居るから、其等の顏を踏附ける事もなく、壁際を傳つて奧の襖を開けた。
 此室《こゝ》も又六疊間で、左の隅に据ゑた小さい机の上に、赤インキやら黒インキやらで散々樂書をした紙笠の、三分心の洋燈が、螢火ほどに點《とも》つて居た。不取敢《とりあへず》その※[#「心/(心+心)」、135−上−6]を捻上げると、パッと火光《あかり》が發して、暗に慣れた眼の眩しさ。天井の低い薄汚ない室の中の亂雜《だらしなさ》が一時に目に見える。ゾクゾクと寒さが背に迫るので、渠は顏を顰蹙《しか》めて、火鉢の火を啄《ほじく》つた。
 同宿の者が三人、一人は入口の横の三疊を占領してるので、渠は郵便局に出て居る佐久間といふ若い男と共に此六疊に居るのだ。佐久間はモウ寢て居て、然も此方へ顏を向けて眠つてるが、例の癖の、目を全然《すつかり》閉ぢずに、口も半分開けて居る。渠は、スヤスヤと眠つた安らかな其顏を眺めて、聞くともなく其寢息を聞いて居たが、何かしら恁う自分の心が冷えて行く樣な氣がする。此男は何時でも目も口も半分開けて寢るが、俺も然《さ》うか知ら。俺は口だけ開けてるかも知れぬ、などと考へる。
 煙草に火をつけたが、怎《どう》したものか美味《うま》くない。氣がつくとそれは「朝日」なので、袂を探して「敷島」の袋を出したが、モウ三本しか殘つて居なかつた。馬鹿に喫《の》んで了つたと思ふと、一本出して惜しさうに左の指で弄り乍ら、急いで先《せん》ののを、然も吸口まで燒ける程吸つて了つた。で、「敷島」に火をつけたが、それでも左程|美味《うま》くない。口が荒れて來たのかと思ふと、煙が眼に入る。渠は澁い顏をして、それを灰に突込んだ。
 眼を閉ぢずに寢るとは珍しい男だ、と考へ乍ら、また佐久間の顏を見た。すると、自分が一生懸命「閉ぢろ、閉ぢろ。」と思つて居ると、佐久間は屹度アノ眼を閉ぢるに違ひないと云ふ氣がする。で、下腹にウンと力を入れて、ギラギラする眼を恐ろしく大きくして、下唇を噛んで、佐久間の寢顏を睨め出した。寢息が段々急しくなつて行く樣な氣がする。一分、二分、三分、……佐久間の眼は依然として瞬きもせず半分開いて居る。
 何だ馬鹿々々しいと氣のついた時、渠は半分腰を浮かして、火鉢の縁に兩腕を突張つて我ながら恐ろしい形相をして居た。額には汗さへ少し滲み出して居る。渠は平手でそれを拭つて腰を据ゑると、今迄顏が熱《ほて》つて居たものと見えて、血が頭から[#「頭から」は底本では「から頭」]スウと下りて行く樣な氣がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎《どう》して恁《か》う時々、淺間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが輕蔑される、…………
 止度もなく、自分が淺間しく思はれて來る。限りなく淺間しいものの樣に思はれて來る。顏は忽ち燻《くす》んで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲はれる程厭な事はない。
 と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟の間には、主婦《おかみ》が起きて來るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寢返りをしただけと見えて、立つ氣配《けはひ》もせぬ。ムニヤムニヤと少年が寢言を言ふ聲がする。漸《やつ》と安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。
 處々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡《かた》がついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰《は》み出してる。ズーッと其等を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]す渠の顏には何時しか例の痙攣《ひきつけ》が起つて居た。
 噫、淺間しい! 恁《か》う思ふと渠は、ポカンとして眠つて居る佐久間の顏さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。
 埃だらけの硯、齒磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鐵筆《ペン》に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を赤いリボンで厚く綴ぢた、一册の帳面がある。表紙には『創世乃卷』と氣取つた字で書いて、下には稍小さく「野村新川。」
 渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披《ひら》いた。
 これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日横山に吹聽した、其所謂六ケ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初發の曉から日一日と成された絶大なる獨一眞神の事業を謳つて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由來を叙し、其掟られたる永遠の運命を説いて、最後の卷には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現に、人生最高の理想を歌はむとして居る。そして、先づ以て、涙の谷に落ちた人類の深き苦痛と悲哀と、その悲哀に根
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング