男は、前より俛首《うなだ》れて、空氣まで凍つた樣な街路《みち》を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町の方へ去つた。

 翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ビクリビクリと痙攣《ひきつけ》が時々顏を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲勞の壓迫が、重くも頭腦に被さつて居る。胸の底の底の、ズット底の方で、誰やら泣いて居る樣な氣がする。
 氣が拔けた樣に※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を着た見知らぬ男が、煖爐《ストーブ》を取圍いて、竹山が何か調子よく話して居た。
 野村も其煖爐に近づいた時、見知らぬ男が立つて禮をした。渠も直ぐ禮を返したが、少し周章氣味《あわてぎみ》になつてチラリと其男を見た。二十六七の、少し吊つた眼に才氣の輝いた、皮膚《はだ》滑かに苦味走つた顏。
『これは野村新川君です。』と主筆は腰かけた儘で云つた。そして渠の方を向いて、『この方は今日から入社する事になつた田川勇介君です。』
 渠は電光の如く主筆の顏を偸視《ぬすみみ》たが、大きな氷の塊にドシリ
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